本の覚書

本と語学のはなし

【第5回】短編小説の集い「のべらっくす」(テーマ:猫)

はじめに

▼小説初心者です。中学生の頃、詩みたいなものを書いていたことはありますが、文学少年から文学青年へと脱皮しないまま、関心は創作から離れて行きました。
▼小説らしきものを書いたのは一回きりです。高校一年生の時にほとんど廃部寸前の文学部に属していて、そこの文芸誌宮澤賢治的なものを書いて載せてもらったことがあります。しかし、それ以降部室に顔を出すこともなく、文学部が存続したのかどうかさえ知りません。
▼ブログを書き始めた頃から、いつも何か創作をしてみたいとは思うようになっていました。小説の書き方の本も幾つか読みました(内容は全部忘れました)。しかし、書き始めるところまで行くことはありませんでした。
▼背中を押してくれたこの企画に感謝すると同時に、こんな罠に嵌らなければ善良な小市民でいられたものを、とも思います。


▼以下、簡単に反省を済ませておきます。
▼語数はワードの教えてくれるところでは3000字に満たない。5000字には随分足りないけど、40字×40行のページ設定で4ページ弱。こんなものかな。しかし、いかにすかすかなものを書いていることか。
▼小説というより、準備段階の構想といった感じになってしまった。描写力のなさが悲しい。
▼三人称の心の中に入っちゃいけなかったんだっけ。
▼短歌もそうだけど、時間の制約が厳しい中で仕上げなくてはならないので、継続して参加するには、普段からアイディアの欠片を書き留める習慣が必要かな。アイディアをストックするだけでなく、アイディアの瞬発力を高めるためにも。

『猫切り寺』

「えいっ、やあっ、とおぉぉぉぉ」
 少年は本堂の中を覗き込んだ。和尚が小さな刀を振り回して叫んでいる。やっぱり噂は本当だったのか。


 残名寺(ざんみょうじ)は通称「猫切り寺」という。普段は何食わぬ顔をして世間をやり過ごしているが、年に一度、生きた猫を真っ二つに切り捨てるという、何とも残酷な秘密の儀式が執り行われるらしい。この辺りの子供たちは、うっかり猫背で本など読んだり、不覚にも猫舌であることがばれたりしたら、残名寺に攫われるぞと脅し合っては眠れぬ夜を過ごすのである。
 だから子供は誰もこの寺に近づかない。盆祭りの夜の肝試しに、数年に一度境内に入り込む強者もいる。けれども、懐中電灯の小さなおぼろげな光が眉間のざっくり割れた狛猫を探し当てた瞬間、たいていは尻餅をついて一目散に退散し、逃げ帰った言い訳の言葉を必死に探すことになるのである。


 犠牲が捧げられるのは夜になってからだ。日暮れが目立って早くなる秋、驟雨の夜に、誰もが家に閉じこもる頃合いを見計らって、密儀はこっそり始まる。
 少年は躊躇した。これ以上ここにいたら、猫と一緒に切られちゃうかもしれない。もう二度と釣りに行けないのかな。まだコーヒー飲めるようになってないのに。マラドーナの神の手だって見たかったのに。それに痛いだろうなぁ、あんな刀で切りつけられたら。それとも血を見ただけで失神しちゃうかな。でも約束しちゃったしなぁ。
 しかし、和尚の予行練習は抜け目なく続き、段々と関節の錆が取れて、足の運びも腕の振り下ろしもどんどんスムーズになって行く。見たこともない所作から少年は眼を離すことができなかった。


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「誰じゃ!」
 少年は跳び上がった。猫に憑りつかれたのか、夢の中にいるかのように和尚の舞に見入っていたのだ。
「あ、あの、迷い込んじゃったんです、ぼく」
「そんなことはあるまい。たんまり石段を上って来なきゃ来られんのだ。カーナビが壊れたってこんなところに迷い込む奴はおらん」
「いえ、車で来たんじゃないんです」
「お前が免許を持ってないことくらい見ればわかるわい。何か目的がなければこんなところには来るわけがないということじゃ。あれか、季節外れの肝試しでもやっとるんか? だがな、今日は忙しいんじゃ。見世物じゃないんだから、さあ帰った、帰った」
 少年は怯んだ。和尚の手元の刀が獲物を探してきらりと光ったように見えた。
 だが、猫は切っても人を殺すほど残忍な顔付ではない。殺すつもりなら問答無用に切りつけてただろう。それどころか帰宅を促し、生きたまま返そうとしている。


「ぼく、猫を探しに来たんです」
「猫? お前の猫が行方不明なんか?」
「いえ、ぼくは猫を飼ってないんですけど、友達が飼っていて、それで友達の代わりに探しているんです」
「なぜ友達が自分で探さないんだ?」
「約束したんです。男の約束」
「男の約束?」
マラドーナの神の手のビデオ見せてくれるっていうから、ぼくが代わりに猫を探すって」
マラドーナの神の手って、あのハンドでゴールしたやつか?」
「えっ、ハンドなんですか?」
「なんだ、マラドーナかめはめ波でも出すと思ってたんか。それに、お前らの約束は男の約束でもなんでもないし、ここにお前らの猫を探しに来ることも間違っとる」
「でも、友達がぜったいここだって」
 和尚の目がぎらりと光った。
「ぜったい?」
「……」
「猫切り寺だから?」
「……」


「これはザンミョウトウという」
「ザンミョウトウ?」
「猫を斬る刀と書いて、斬猫刀」
 和尚は手にしていた小さな刀を少年の首根につけた。
「覚悟はいいか?」
 少年は言葉も出ない。その場にへたり込んだ。和尚は小刀を振りかざす。
「くゎぁぁぁー」
 そう叫んで少年の肩をやさしく峰打ちにした。
「かっかっかっか、人間は切りはせんわい。どうじゃ気分は?」


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 和尚は残名寺の縁起を話し始めた。


 この寺の開山様はな、その昔、中国に渡ってある寺で修行なさった。その寺のずーっと昔の偉い住職さんが、この斬猫刀の持ち主じゃ。
 ある日弟子たちが仔猫のことで言い争っておった。この猫は俺のだ、いや俺のだとでも言っておったんかな。それとも猫は仏さんになれるのかな、なれんのかな、とでも難しいことを言っておったんかな。それは分からん。
 じゃが一向に争いがやまんので、住職さんは一計を案じた。お前たちがうまいこと言ったら猫は生かしてやろう、うまいこと言えんかったら切り捨てるぞ、とな。まあ、仔猫で争う奴らのこと、誰一人としてうまいことは言えんかった。それで住職さん、ほれ、この刀でこうしてばっさりじゃ。
 夕方になって賢いお弟子さんが帰ってきた。住職さん、さっそくその話をしてやったら、お弟子さんは何も言わずにわらじを頭に乗せて、すうーっと自分の部屋に帰って行った。お前がおったら、わしゃ猫を切らずにすんだものを。住職さん、そう言ったそうじゃ。
 この刀は開山様が中国で修行を終えて帰るとき、確かに真実を受けついだという印に貰ってきたものじゃ。それ以来、年に一度この寺では猫を切るという訳だ。


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「本当に猫を切るの?」
「本当だ」
「本物の猫を切るの?」
「本物じゃ」
「でもそれじゃかわいそうじゃないですか」
「一刀両断、偏頗(へんぱ)に任す、と言ってな。良いの悪いの、ああだこうだ言っても、どうにもならん。根元からスパッと切ってやらにゃあ、死んで生きる道も開かれんという訳じゃ」
「そんなぁ」
「それが伝統じゃ」
「今年も猫を切るの?」
「そう今夜」
「猫はもう用意してあるの?」
「抜かりはない」


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 翌朝、学校に一本の電話が入った。


 あのぅ、家の前に気味の悪いものが置いてあるんです。猫の胴体を半分に切ったケーキみたいなんですけどね。ええ、残名寺さんのところで今時分に作ってるって噂は聞いたことありますけど、きっとそれなんですよ。苺のソースが血に見立ててあって、甘酸っぱくておいしいんですけどね。ああ、ごめんなさい、ちょっと舐めちゃったんです。
 いや、でも気味が悪いのはそれじゃなくて、手紙なんですよ。そう、手紙が添えてありましてね。子供の筆跡で「お前の猫は一刀両断した。ごちゃごちゃいうな。何も考えずに下足箱に頭を突っ込め」って書いてあるんです。
 きっと息子の友達のいたずらだと思うんですけど、息子に聞いても男の約束だからって何も言おうとしないんですよ。でも悪ふざけじゃすまないじゃないですか。これが発展して本当に猫を殺して、そのうち人間を殺してみたくなって、いつかテロリストになっちゃうかもしれませんからね。いやな世の中ですこと、本当にねぇ。それで一応報告しておかなきゃと思いましてね。
 え、うちの猫ですか? 二三日家出していたんですがね、夕べ雨の降る前にひょこっり帰ってきましてね。そりゃあうちの子は大喜びでしたよ、神の手だ、神の手だってね。

あとがき

▼「猫」と聞いて思い出すものが二つありました。一つは『猫が行方不明』というフランス映画。簡単に言えば、パリのバスティーユ界隈で行方不明になった猫を探す物語です。
▼原題は「Chacun cherche son chat」。誰もが自分の猫を探している、というような意味でしょうか。行方不明になった一匹の猫だけが問題なのではなく、人それぞれに失われた何かを追い求めるものだということ、そしてそれは決して遠方に見つかるようなものではないことを示唆しているようです。


▼もう一つは南泉斬猫の逸話。『無門関』の本文で確認しておきます。

南泉和尚、東西の両堂の猫児を争うに因んで、泉、乃ち提起して云く、「大衆道(い)い得ば即ち救わん。道い得ずんば即ち斬却(ざんきゃく)せん。衆対(たい)無し。泉、遂に之れを斬る。晩に趙州外より帰る。泉、州に挙似(こじ)す。州、乃ち履(くつ)を脱いで頭上に安じて出ず。泉云く、「子(なんじ)、若し在らば即ち猫児を救い得ん」。(14)

▼『碧巌録』では第63則で南泉、第64則で趙州を扱っていますが、前者の方につけられた雪竇の頌に「一刀両断、偏頗(へんぱ)に任す」という言葉があります。偏頗とは偏った議論のことを言うようです。禅僧の秋月龍珉は、「昔は猫だったからまだいいが、唯物論だ唯心論だ、共産主義だ資本主義だ、回教だキリスト教だ、という争いとなると、水爆数発で人類絶滅となりかねぬ。なんとしても一度この問題の根本を、禅的に一刀両断しておかねばならぬ」(『一日一禅』230)と解説していますが、そんなものなのでしょうか。


▼いずれにしろ、私は思想的なことや宗教的なことが書きたかったのではなく、まして何かを批判しているのでも称賛しているのでもなく、二つの想起を一つにまとめて物語にしてみたいと思っただけで、しかも何を書こうとしたのか、書きながらますます自分でも分からなくなっていくような始末でした。
▼言うまでもありませんが、本作品はフィクションであり、実在のお寺や宗派とは何の関係もありませんよ。

参考資料

猫が行方不明 [DVD]

猫が行方不明 [DVD]

無門関 (岩波文庫)

無門関 (岩波文庫)

碧巌録 (中) (岩波文庫)

碧巌録 (中) (岩波文庫)

一日一禅 (講談社学術文庫)

一日一禅 (講談社学術文庫)

碧巌録〈下〉 (タチバナ教養文庫)

碧巌録〈下〉 (タチバナ教養文庫)

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