本の覚書

本と語学のはなし

祈りのポシェット/ジョージ・アプルトン編

祈りのポシェット

祈りのポシェット

▼祈りって何だろうか。たぶん祈らない宗教はない。現世利益的であろうが、単に儀式を遂行するだけであろうが、祈らないということはないはずだ。決まった文句を唱えるにしろ、饒舌にまくしたてるにしろ、ひたすら沈黙するにしても、祈りは祈りである。
▼どんな形であれ、祈りとは神的存在との応答であるだろう。道元が「生死」の中で書いていること、これも祈りの形態であるには違いない。

ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こゝろをつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。


▼私は定型的な祈りを繰り返したことがあるばかりである。だが神をアッバと親しく呼びかけたこともないし、何らかの交じらいを体験したこともない。
▼祈ることのできない私は、キリスト教徒でないのはもちろん、宗教的な人間ですらないに違いない。祈ることを学ばなくてはならない。


▼本の感想を書かなくてはいけない。有名無名の人々の祈り、聖書や祈祷文からの抜粋、異教徒の祈りなどを集めた、小さな栞である。
▼詩を読むように、それぞれの祈りを2回ずつ繰り返して読んだ。だが詩を読むような感動はなかった。編者のアプルトン自身の祈りも収められているのだが、その祈りに違和感があるのも原因の一つだろう。

……
そして自然を制御できる知識を得る希望を。
ああ造り主なる父よ、
私たちを助けて、あなたの世界を完成する助け手としてください。
この世界の欠けを取り除いて
わたしたちが、イエス・キリストにおける愛の王国を
あなたとともに造る働き手となることができますように。(p.106-107)

▼聖書には確かに人間が被造世界の頂点に君臨して、これを制御しなくてはならないという思想があるのは確かだろう。しかし、日本人の感覚からすればどうしてもそれは傲岸不遜としか思われない。
▼私にはあるブルターニュの漁師の祈りの方が遥かに好ましい。

愛する神さま、わたしを守ってください
海はあんなに広く
わたしの舟は、こんなにも小さいのですから。(p.149)


▼最後に、キリスト教徒かユダヤ教徒か知らないが、ラベンスブルック強制収容所の無名の囚人が書き、幼児の死体のそばに置いた祈りを引用しておく。

ああ主よ、善意の人々ばかりでなく悪意の人々をもみ心にとめてください。けれども彼らがわたしたちに負わせた苦難は覚えず、どうかわたしたちがこの苦難のおかげで買い取ったもの――わたしたちの友情、忠実、謙虚、勇気、寛容、心の大きさ――を思い起こしてください。それらはみなこの苦難から生まれ育ったのです。そして彼らが審きの座につくとき、わたしたちが産みだしたこれらすべての実りを、彼らを赦すものとしてください。(p.43, 62-63)

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