本の覚書

本と語学のはなし

どろんここぶた/アーノルド・ローベル作、岸田衿子訳

どろんここぶた (ミセスこどもの本)

どろんここぶた (ミセスこどもの本)

今週のお題特別編「素敵な絵本」

 ふだん私はこの手のお題に応募することはありません。一目瞭然ですね。はてなスターをはじめとするソーシャルパーツはすべて非表示にしてますし、コメントは受け付けておりませんし、読者になってもらおうと努力もしていませんし、何かの手違いで読者になった方にも一切返礼はしていません。
 つまり、公共の場に日記を晒していながら、可能な限り引きこもるという掟破りを貫いているわけです。いったい何があったというのでしょう。いえいえ、何もありはしません。これが元来の私の性質なのです。不幸にして私はそれを甘やかし続けて生きてきてしまっただけなのです。

ルーツをたどる

 若い頃に出会った、あるいは出会ってしまった本の中には、その人の一生を決定づけてしまうようなものもあります。多くの場合、自分の内にあってまだ明確な形や表現を与えられていない何某かの可能態に働きかけ、かつ既にあった可能性を超えて現実態となるべく、一定の方向とエネルギーを与えるようなものではないかと思います。
 果たして私にそのような出会いがあったのでしょうか。よく分かりませんが、あったとすれば、高校の時に読んだ吉田兼好の『徒然草』こそそれでしょう。ことにその第60段がいつでも私の心に掛かっています。

 真乗院に、盛親僧都(じやうしんそうづ)とて、やんごとなき智者ありけり。芋頭*1といふ物を好みて、多く食ひけり。談義の座にても、大きなる鉢にうづたかく盛りて、膝元に置きつゝ、食ひながら、文をも読みけり。患ふ事あるには、七日・二七日など、療治とて籠り居て、思ふやうに、よき芋頭を選びて、ことに多く食ひて、万の病を癒しけり。人に食はする事なし。たゞひとりのみぞ食ひける。極めて貧しかりけるに、師匠、死にさまに、銭二百貫と坊ひとつを譲りたりけるを、坊を百貫に売りて、かれこれ三万疋*2を芋頭の銭(あし)と定めて、京なる人に預け置きて、十貫づつ取り寄せて、芋頭を乏しからず召しけるほどに、また、他用(ことよう)に用ゐることなくて、その銭皆に成りにけり。「三百貫の物を貧しき身にまうけて、かく計らひける、まことに有り難き道心者なり」とぞ、人申しける。

 全財産を芋頭に捧げた変人の話です。誰にも食わせず、ただひとりむしゃむしゃ食べていたのです。わくわくしますね。

 この僧都、或法師を見て、しろうるりといふ名をつけたりけり。「とは何物ぞ」と人の問ひければ、「さる物を我も知らず。若しあらましかば、この僧の顔に似てん」とぞ言ひける。

 「しろうるり」が何であるのかは謎です。言った本人も知らないのですから、単なる語感で発した言葉なのかもしれません。私が学生時代にアルバイトをしていたある書店の店員さんは、卒業論文で「しろうるり」の解釈をしてみせたそうですが、残念ながらその高説は失念してしまいました。でも、それでよいのではないでしょうか。どんなに有難い哲学的解釈もつるんと滑ってかわしそうですものね。

 この僧都、みめよく、力強く、大食にて、能書・学匠・辯舌、人にすぐれて、宗の法燈なれば、寺中にも重く思はれたりけれども、世を軽く思ひたる曲者にて、万自由にして、大方、人に従ふといふ事なし。出仕して饗膳などにつく時も、皆人の前据ゑわたすを待たず、我が前に据ゑぬれば、やがてひとりうち食ひて、帰りたければ、ひとりつい立ちて行きけり。斎・非時も、人に等しく定めて食はず。我が食ひたき時、夜中にも暁にも食ひて、睡(ねぶ)たければ、昼もかけ籠りて、いかなる大事あれども、人の言ふこと聞き入れず、目覚めぬれば、幾夜も寝ねず、心澄ましてうそぶきありきなど、尋常(よのつね)ならぬさまなれども、人に厭はれず、万許されけり。徳の至れりけるにや。

 食べたいときに食べ、席を外したければついと立つ。寝たいときに寝て、誰が起こしに来たところで構うものではなく、眠くなければ起きたまま。こんな自由人こそ私の英雄でした。

どろんここぶた

 ですがこの盛親僧都、私にはちょっとかっこよすぎるようです。徳のない私は、社会のど真ん中で彼のようにふるまう勇気は持っていません。ではどうするか。盛親僧都の気ままさを捨てて社会に適応するか、あるいは社会から半分隠れるかです。
 そうして私が選んだのが、後者の半隠棲だったのです。ではなぜそのような没落の道を選択してしまったのでしょうか。やはり私の幼少期に大きな影響を与えたひとつの絵本が思い浮かびます。アーノルド・ローベルの『どろんここぶた』です。

こぶたは、たべるのが だいすき、
うらにわを かけまわるのも だいすき、
ねむる ことも、だいすできした。


でも、なによりも なによりも すきなのは、
やわらかーい どろんこの なかに、
すわったまま、しずんで ゆく ことでした。

 これが子供の読む絵本でしょうか。なんとも淫靡で背徳的な香りがするではありませんか。ひょっとしたら私が小学校の中学年の頃までおねしょをしていたのとこの本を好んだことの間には相関関係があるのかもしれません。中学年にもなれば、自分が布団の中で小便を垂れ流していることにまったく気が付いていないわけでもないのです。ですが堕落の縁にまどろむ快楽を既にして知ってしまっていたのです。

「こんな うち、
ぴかぴか すぎて、
つまらないや。」

 ある日、こぶたの小屋を飼い主である農家のおばさんが大掃除します。お気に入りのどろんこもなくなってしまいました。怒ったこぶたは家出してしまうのです。
 このようにして、私にとっても社会はなにか「ぴかぴか」すぎるものだったのでしょう。そしてその「ぴかぴか」の世界に住むことが、泥をかぶるほどにも清潔ではないことを、時として思い知ることもあったのでしょう。こぶたと同じく、私もまた泥の中に沈む快楽へと舞い戻ったのでした。

すぐに こぶたは、
ぶたごやに かけこんで、
まず ごはんを たべました。


それから、だいすきな やわらかーい
どろんこの なかに すわりこんで、
しずかに、ずずずーっと、
しずんでゆきました。

 ことほど左様に、絵本が一生を左右してしまうこともあるわけです。たかだか絵本などと言わずに、その選択にはいくら慎重であってもありすぎるということはありません。お題に応募したのは、そんな訳なのです。

*1:さといもの塊茎、おやいも。

*2:三百貫にあたる。