本の覚書

本と語学のはなし

パテル・ノステル

主の祈り

 天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
 わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救い下さい。アーメン。

 これはカトリックの主の祈りである。福音書ではマタイとルカに載っているが、基本的にはやや長いマタイの方を用いて作られている。

パテル・ヘーモーン

Πάτερ ἡμῶν ὁ ἐν τοῖς ούρανοῖς·
ἁγιασθήτω τὸ ὄνομά σου·
ἐλθέτω ἡ βασιλεία σου·
γενηθήτω τὸ θέλημά σου,
ὡς ἐν οὐρανῷ καὶ ἐπὶ γῆς·
τὸν ἄρτον ἡμῶν τὸν ἐπιούσιον δὸς ἡμῖν σήμερον·
καὶ ἄφες ἡμῖν τὰ ὀφειλήματα ἡμῶν,
ὡς καὶ ἡμεῖς ἀφήκαμεν τοῖς ὀφειλέταις ἡμῶν·
καὶ μὴ εἰσενέγκῃς ἡμᾶς εἰς πειρασμόν,
ἀλλὰ ῥῦσαι ἡμᾶς ἀπὸ τοῦ πονηροῦ.

 これが主の祈りの原文である(マタイ6章9節から12節)。
 プロテスタントでは、「国と力と栄光は、とこしえにあなたのものだからです。アーメン」をもって祈りの終わりとしているけど、もちろん勝手に付け加えたのではない。写本の中にはそうなっているものも存在するのである。欽定訳ではそれも本文と認められている。

エピウーシオン

 一番問題なのは、ἐπιούσιονという形容詞である。ほとんど用例がないのだ。
 ヴルガータ訳ではsupersubstantialisという語を当てており、昔の研究社の『羅和辞典』では「生命を維持するに必要な」とこれを説明しているけど、田川の解説によればヒエロニムスは文字どおり非物質的で超実在的な神学的パンを想定していたらしい。
 岩波(佐藤研)や新共同訳では「必要な」としている。ヒエロニムス同様、エピウーシアという女性名詞を先ず想定し、エピは軽く「のため」、ウーシアを「存在、実在」ととる。これを形容詞化すれば「存在のための」となるが、語学的には少し無理があるようだ。
 田川の結論では、後半部分は「存在する」ではなく「行く」の方の動詞エイミの現在分詞に由来する。実際、エペイミの現在分詞は「来たる」を意味し、女性形のエピウーサは日を表す女性名詞と一緒に使われて、これから始まる今日(夜ならば明日)のことを指す。そこから日を省略し、分詞に形容詞語尾を付加して「来たる日の、今日の」を意味させるというのは、ごく自然なことのように思われる。

オフェイレーマタとハマルティア

 マタイは「罪」とは言わず「負債」(口語訳)と言っている。もちろん倫理的な「負い目」(新共同訳)のことでもある。はっきり「罪」と言うのはルカである。カトリックの主の祈りでは、なぜかこの部分をルカの用語によっている。ラテン語だってここはdebitaであって、ルカの訳に用いるpeccataではないのに。
 もう一つ、「わたしたちも人をゆるします」の部分。これは本文批判の仕事にも関わることで、現在や未来で訳すことも間違いとは言えないし、その方が教義上も都合がよさそうである。しかし、ネストレが採用している読みはアオリストの形であり、それが文献学の原則にも沿っている。つまり、新共同訳のように「わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」とするか、あるいは「赦しましたので」と訳すのが、マタイの元来の姿に忠実であるように思われる。ルカが現在形を使っているために、そちらに流れやすくなるようだ。

ポネーロスとポネーロン

 「悪からお救い下さい」なのか「悪魔からお救い下さい」なのか。これはギリシア語テキストから判別することはできない。悪魔なら男性名詞のポネーロス、悪なら中性名詞のポネーロンなのだが、テキストに現れる単数属格はどちらにしても同じ形である。
 傾向として、カトリックは悪魔、プロテスタントは悪を好むのかもしれないし、現代の読者は悪魔には冷淡であるかもしれない。同じカトリックでも、バルバロ訳では「悪魔」として、注に別訳として「悪」と書き、フランシスコ会訳では「悪」として、注に男性名詞なら「悪魔」であると書いている。