私がカトリックとしてミサに与っていたのは20年ほど前のごく短い一時期だけで、今ではミサの記憶もかなりあやふやなものになっている。これでもまだカトリックなどと名乗れるものなのかどうか、それも怪しいもんだ。
「悪しきカトリック」などと悪ぶってみたところで、そもそももうカトリックですらないんじゃあないか。簡単な注釈つきのミサ式次第を読みながら、懐かしさに揺り動かされると同時に、イエスをキリストに祭り上げることに対して、まるでトーシローのような戸惑いまで感じているのだ。
キリストのからだ
プロテスタントの礼拝ではいつでも聖餐式をするわけではないらしいけど、カトリックのミサでは必ず聖体拝領というものを行う。
司祭が奉献文を読み上げるとき、「聖別のことばによってキリストは、パンの外観のもとに、祭壇上に自ら現存」するのである。同様に、ぶどう酒の聖別のことばが唱えられると、「今までぶどう酒であったものが、その全能の力によりキリストの真の御血」になるのである。
司祭は「キリストのからだ」と言って聖体を授け、信者は「アーメン」と答えてこれを受ける。古風な人は、手に受けるのでは勿体ないというので、直接口に受けたりもする。それがまぎれもないキリストの体であると信じるからである。
カトリックのミサが秘跡であるゆえんである。
万人祭司
ミサの中、ことばの典礼の終わり、感謝の典礼の直前に、信者は共同祈願というものを行う。そこに付けられた注。
共同祈願において、会衆は自分の祭司職の務めを果たし、すべての人のために祈ります。聖なる教会のため、種々の困難に悩む人のため、さらにすべての人と全世界の救いのために、嘆願の祈りをするのです。(p.17)
私が不勉強なだけかもしれないが、会衆にそれぞれ「自分の祭司職」があるというのは、カトリックにあっては新鮮な響きがする。
もちろん司祭のそれとは違うので、ミサを立てることも、聴聞僧として懺悔を聞き罪を許すこともできないだろうけど、一般信徒もそれぞれの仕方において祭司でなければならないのである。