本の覚書

本と語学のはなし

聖書の読み方/大貫隆

聖書の読み方 (岩波新書)

聖書の読み方 (岩波新書)

  • 作者:大貫 隆
  • 発売日: 2010/02/20
  • メディア: 新書

 学生たちに実施したアンケートをもとに、聖書がいかに読みづらい書物であるかを前半で長々書き連ねる。それを踏まえたうえでどう聖書を読むべきか、後半で提案をする。
 聖書を相対化して読む心構えのできている人にとっては当たり前のことしか書いてないが、キリスト教に何のゆかりもなく過ごしてきた人にとっては「こんなふうに読んでよいのか」という発見もあるだろうし、聖書の無謬を一切疑わない逐語霊感説をとるクリスチャンは「こんなふうに読んでよいはずがない」と剣突を食わせるだろう。
 特に大事なのは、個々の文書の性格を把握すること。そのためには成立年代や書かれた状況などを可能な限り知り、一見すると表には出てこない書き手に肉薄することである。また、違和感を大事にすること。聖書には「隙間」や「破れ」などたくさんある。あるいは戦略として逆説が仕掛けられている場合もあるだろう。それらと格闘することでのみ、聖書は真に開かれる。しかし、焦ってはいけない。イエスが十字架に架けられた時、弟子たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。彼らもその意味を了解するには時間がかかったのだ。「真の経験は遅れてやってくる」のである。

 最後に読書案内がついている。ユニークなのは、旧約外典偽典(死海文書を含む)、新約外典グノーシス文書も紹介していること。その方面の翻訳や研究書も多数ある人だから当然かもしれないが。
 グノーシスについては面白い指摘があった。大貫の教え子の筒井賢治の『グノーシス』では、至高神による人間の救済という図式しか見えてなかったが、大貫の方はこう言っている。

こうして、個々の人間に宿る本質(光)は、目に見える世界とその創造主をはるかに超えた超越的世界に由来し、やがてそこに回帰していかねばならない。創世記で世界と人間を創造したと言われる神は愚かな神なのであって、本来の人間を超えるものは何もない。本来の人間こそが至上最高の存在である。グノーシス主義とは人間即神也の思想なのである。(p.204)

 いずれにしてもこれは異端の思想なのであるけど、しかし彼らは「聖書の周縁ではなく、中心に躓いた」(p.205)のである。我々も仮に躓くのであるとすれば、周縁的なことであってはならない。真の「躓きの石」に躓かなくてはならない。「人を躓かせないようなものは真理ではない」(p.129)のだから。