本の覚書

本と語学のはなし

聖書を学ぶ

学習計画

(1) フランシスコ会訳聖書を通読する。次は岩波聖書翻訳委員会訳。引照は丁寧に調べる。
(2) 二月中にヘブライ語文法を終える。
(3) その後、ギリシア語とヘブライ語で聖書を読む。
(4) 聖書学を学ぶ。
(5) 日本古典文学、フランス文学、英米文学を原典で読む。
(6) 職場では漢詩と歴史小説を読む。

問い(一)

 教会を離れて二十年近くになる。今でも私はカトリックと言えるだろうか。学生時代の選択などもう尊重することをやめて、プロテスタントに転向するべきだろうか。否、それ以前に、そもそも私はキリスト教徒でありうるのだろうか。
 私は教会を必要とするのか。祈りを必要とするのか。行動を必要とするのか。ただの聖書愛好家であってはいけないだろうか。聖書を通じて外国語を学ぶことに喜びを見出すだけではいけないだろうか。
 「教会に通わない悪しきカトリック」に居直ってよいだろうか。

問い(二)

 気力も能力も衰え、健康は損なわれ、経済は転落してゆく。衝動に任せて手を拡げる時期は過ぎた。ほんの一握にしろ、何か掴み取れるものがあるのならば、そのためにもろ手を差し出し掴まなくてはならない季節になったのだろうか。
 歴史、日本古典文学、フランス文学、英米文学、キリスト教。これでは多すぎる。そして、そのうちの一つすらなお広すぎる。切り捨てなくてはならない。選び取らなくてはならない。だが、この先十年、確実に続けるであろうことは一体なんだろうか。
 私は何か一つのことを愛することがない。何か一つのことを信じることがない。壁が立ちはだかるとき、それどころか目的のものが手に入りそうになったときにすら、既に身を転じて逃走を図るのである。まるでそれがお仕着せであって、かつそれが自分の肌となってしまうのを恐怖するかのように。
 この先十年、確実に続けられることが果たしてあるのだろうか。