本の覚書

本と語学のはなし

12月13日(土)
▼前日は全く問題なく自転車で通勤できたが、夜勤をしている間に30センチくらい雪が積もった。消雪パイプというものがある地域に住んでいるので、それでも大方は自転車を漕ぐことはできるのだが、どうしても雪の中、自転車を引っ張らなくてはならない区間もある。人気のない土手で雪と自転車と格闘しながら、宮澤賢治とは程遠い世界の中ではあるが、それでも遭難するということはありうるのだと思った。
▼夜、何度となく足がつって目が覚める。

12月14日(日)
▼日勤。昨日のことで懲りたので、バスで通勤する。しかし、駅までは自転車。そこまでなら消雪パイプのある小さな生活道路を選びつつ、比較的安全に自転車を漕ぐことが可能なのだ。
▼帰り、ホースの水で消雪している通りでは、積もる速度に水量が追いつかなかったらしい。大分雪が深くなっており、宅配の車が立ち往生していた。

12月15日(月)
▼休みなので、下屋根だけ雪下ろしをした。いつもならまだ腰を上げることはない量であるけど、数日後にまた大雪になるかもしれない予報であるし、めいっぱい積もってから下ろすのは体力的にきつくなってきたし、早目にやっておくことにした。
▼いつもスコップで下していた屋根も、今年はなるべく体力を使わないようスノーダンプでやることにした。だいぶ厚く雪を残すことになったが、仕方ない。
▼気の早い人たちに囲まれているせいもある。隣も斜め前も今日雪下ろしをしていた。後者は今年もう2回か3回目。
▼父はもう何年も前から雪下ろしはしなくなっているが、雪かきはそこそこやっていた。今年もやりはするのだけど、ずいぶん衰えた感じは否めない。これからは私一人で雪下ろしも雪かきもする覚悟でないといけない。

▼ほとんど1日潰れた。雪下ろしだの雪かきだのほど無駄な仕事はない。何も生み出すことなく、無益にエネルギーが使われていくだけである。しかし、一面これは優れて宗教的アレゴリーであるのかもしれない。
▼「かの痴聖人を傭(やと)うて、雪を担って共に井を填(うず)む」という言葉を白隠は尊重したという。恐らくは雪で井戸を埋めようとしたって出来ぬ相談で、無益な努力は永遠に続くのであろう。終末論を持たない仏教の菩薩行とはこういうものである。