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ΚΑΤΑ ΜΑΘΘΑΙΟΝ 読了

新約聖書 訳と註 1 マルコ福音書/マタイ福音書

新約聖書 訳と註 1 マルコ福音書/マタイ福音書

  • 作者:田川建三
  • 発売日: 2008/07/04
  • メディア: 単行本

ペース

▼ようやくマタイ福音書を終えた。
『新約聖書ギリシア語入門』を終えてマタイを読み始めたのが去年の10月だから、読了までに1年以上かかったことになる。ネストレのテキストで約100ページ。1日平均で半ページも読んでいない。
▼最近は1日2ページくらい読むようにはしている。来年の目標は、しかし4ページ。月に20日で、10か月1順のペースだ。無理ではないけど、もう少し辞書に頼る頻度を減らしたい。
▼最初の頃は英訳、フランス語訳、ドイツ語訳、ラテン語訳、日本語訳も数種類参照していたし、注釈のあるものはなるべく全部目を通すようにしていた。これではなかなか進まないので、段々数を減らしていき、今では田川建三の訳注しか見なくなった。

疑念

キリスト教に関心があるならば、その原典を原語で読むのが当然であるかもしれない。しかし、案外これが難しい。ギリシア語が難しいからというわけではない。確かに古典ギリシア語の文芸作品と対峙すれば七転八倒しなくてはならないけど、聖書はごくふつうの散文である。言語的に難しいのではなく、ここで対峙しなくてはならないのは疑念なのだ。
▼あらゆる疑念と戦わなくてはならない。まず写本に対する疑念。ネストレを開けば、各ページ3分の1くらいは異読の指示で埋まっている。写本家たちはうっかり書き落としたり、書き間違えたり、余計なものを付け足したりする。時には欄外の注釈が本文に入り込む。意味が分からなければ書き換えたり、他の福音書と記述を統一しようとしたり、自己の神学に適合させようとしたり、などなど。
▼翻訳に対する疑念。聖書にまさか誤訳があるはずがないというのは、盲信の部類に入る。誤訳とは言わないまでも、いろいろと問題はあるものだ。
▼もっとも根本的な疑念は、聖書の記述そのものに対するそれである。もちろん翻訳だけ読んでいてもある程度のことを察することはできるだろうけど、原文を読み、注釈に目を通し、編集の過程を思いめぐらしてみることで、どうしても疑わざるを得なくなることが諸々生じてくるのだ。
キリスト教徒にとって重要なのは、こうした疑念を受け付けずに全てを信じ切るという態度ではなく、こうし疑念を受け入れつつ、それににもかかわらず、最終的にはイエスをキリストと信じることだろうと思う。
▼私がキリスト教徒であるかとなれば、まだそうとは言えない。

インマヌエル

καὶ ἰδοὺ ἐγὼ μεθ’ ὑμῶν εἰμι πάσας τὰς ἡμέρας ἕως τῆς συντελείας τοῦ αἰῶνος.

▼マタイ28章20節b。すなわち最後の1文である。
▼田川訳で紹介すると「そして見よ、私は世の終焉まで、いかなる日にも、あなた達とともに居る」。
▼身ごもったマリアをひそかに離縁しようとした時、ヨセフの夢に天使が現れ、生まれてくる子をイエスと呼ぶように言った。「これら一切は、主によって言われたことが成就するためである。すなわち、『見よ、乙女みごもりて、子を生まん。その名はインマヌエルととなえらるべし』と。これは訳すと『我らと共に神はいます』という意味である」(1章22-23節)。
▼イエスと呼ぶことが、なぜインマヌエルと呼ばれるだろうという預言の成就になるのか。しかし、これは名称の問題ではなかった。預言はイエスの在り方において成就されたのであり、そのことがイエスの最後の言葉に表されているのである。
▼ただしイエスが語ったのは11人の弟子たちにであり(ユダは欠けている)、その限りマタイの神学の表出でもあるだろう。