本の覚書

本と語学のはなし

人と思想10 カルヴァン/渡辺信夫

カルヴァンのイメージ

▼著者のあふれる愛情を割り引くとしても、今まで何となくカルヴァンに対して抱いていた負のイメージが払拭される。
カルヴァンが冷酷な独裁的神政政治家であったという誤解について。

カルヴァンジュネーブにおいて権力を握ったとの、しばしば行われる見解は、われわれがかれの生涯を見たときに確かめたように、あらゆる意味でまちがいである。かれの大きい自己犠牲に裏づけられた誠実さが、しだいに市民の間に心服されるようになっていっただけであり、一教会人が政治権力を掌握して神政政治を行うということは、かれの思想の中について片鱗をも発見できないし、かれの実践の中にもない。事実はその逆であり、かれは政治と宗教を分離させるために苦労した。(p.175)

カルヴァンの中心思想が予定論であるという誤解について。

神についてまず考え、次に神の永遠の意志決定について考え、そのあとで、神の計画にもとづく創造と救いのわざについて考えるという考え方もたしかに成り立つ。ただ、カルヴァンはそういう順序で考えを進めることはしない。かれは神の意志決定については非常につつましく考える。神の選びは隠されているではないか。だから、はじめに神の絶対的な決定を論じておくのもひとつの考えなのであるが、そのような考えはスコラ神学者の流儀である。論理的に筋を通そうとする考えである。神の永遠の意思決定が理論的に明快・透明なものだととる見方である。カルヴァンはそのようには考えず、神の永遠の意思決定を神秘なもの、人間の思考をかき乱さずにはおかぬ恐るべきものとしてとらえる。(p.165-166)

聖餐論

▼ルターとの違いの一つに聖餐論がある。カトリックのミサにおいては、パンとワインが実際にキリストの体と血とに実体変化すると信仰する。ツヴィングリは「記念」ないし「象徴」があるとのみ考えた(象徴説)。ルターはパンの中に、パンとともに、キリストの体がある、すなわち物理的・肉体的な意味においてキリストがそこに実在すると唱えた(共在説)。これに対して、カルヴァンは臨在説を主張したと言われる。

キリストはたしかにここ聖餐式のうちに実在されるが、それは肉体的実在であろうか。それは天上にいますキリストの栄光に重大な侵害になりはしないか。そして、ひとたびあがないのわざをはたして昇天されたキリストをふたたび地上に引きもどすことによって、われわれ自身の救いを危うくすることはないだろうか。さらに、受ける人の信仰の状態いかんにかかわらず、キリストのからだが客観的に授けられるということを強調すれば、キリストの栄光を傷つけることになりはしないか。
聖餐におけるキリストの実在は霊的実在なのである。それは象徴を凌駕し、肉体的・物理的実在をも凌駕する。(p.183)

正統派

▼正統派ということについて。

キリスト教の正統派に属する人々は、そのような見解はとらない。キリストが模範だという点にはあまり重きをおかない。キリストの生涯にも、その教訓にも、特別な重要さは見ない。重要なのはキリストの「死」である。そしてキリストは倫理家ではなく、贖罪者(罪をあがなうもの)なのである。カルヴァンも正統派の考えを受けついでいる。(p.147-148)

▼ここからは当然史的イエスの豊饒さに開かれる道はない。

プロテスタント教会

宗教改革プロテスタント神学についてもっと学ばなくてはいけない。私はたぶんもうカトリックではないだろうから。
▼仕事帰り、家から一番近いであろう教会を外観だけ見てきた。ほとんど普通の住宅である。福音派であろう。私はこういうところに通うにはちょっと自由主義的でありすぎるかもしれない。
▼近いところというと、もう一つ福音派の教会がある。若干離れて日本基督教団。歴史的にはリベラルなところではないかと思う(今はどうか知らないが)。それとカトリック教会。私が子供の頃にわずかな期間通った英語教室を主宰していた教会は閉鎖されたが、今一つの教会もそう遠くはない。もう少し離れると、聖公会、バプテスト派、ルーテル派などがある。しかし、地理的以上に、心理的に遠い気がする。