本の覚書

本と語学のはなし

マタイ25章40節

40 καὶ ἀποκριθεὶς ὁ βασιλεὺς ἐρεῖ αὐτοῖς· ἀμὴν λέγω ὑμῖν, ἐφ’ ὅσον ἐποιήσατε ἑνὶ τούτων τῶν ἀδελφῶν μου τῶν έλαχίστων, ἐμοὶ ἐποιήσατε.

▼私が学生時代に教会に通うきっかけとなった福音書の箇所を原文で読んだので、記念に書き抜いておく。
▼本文批判上、「わたしの兄弟たち」という語には問題があるようだ。田川建三はこれがあるとないとでは意味も全然違ってくるという。すなわち、あれば、キリスト信者に親切をすることはキリストにすることであるという意味に限定されるのだと。

34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

▼当時読んだのは新共同訳だった。
▼終末論的なたとえ話であるけど、そのこと自体はどうでもよかった。神と人との間にある厳とした区別が、音を立てて崩れる気がした。図式的に考えていたキリスト教が、生きた宗教として立ち現われてきた。
▼恐らく誤解をしていただろう。私は小さな者たちの内に神を見ようとしていたのだ。

40 et repondens rex dicit illis
amen dico vobis
quamdiu fecistis uni de his fratribus meis minimis mihi fecistis

▼学生時代以来、私はなぜか40節の王の言葉をラテン語で暗唱している。

▼当時、盲目の神をもてなすどこかの風習をニュースで見て、これこそ真の神であると涙を流した記憶がある。
▼検索すると、どうやら能登地方のアエノコトという祭りのようだ。しかし、今映像を見ても別段感動しない。なんであの時はマタイと結び付けてみたりしたのだろうか。