本の覚書

本と語学のはなし

マリアに倣いて/トマス・ア・ケンピス

▼トマス・ア・ケンピスが『マリアに倣いて』というまとまった本を書いたわけではない。アルバン・デ・チガラという人が彼の著作中からマリアに言及した箇所を抜き出し、喜びの玄義、苦しみの玄義、栄えの玄義の3部に各10章ずつを配置して整理し、各章の末尾に自ら聖訓と黙想の文章を付け加えて一冊の本にしたのである。
カトリックのマリア崇敬がどこまで行ってしまうものであるかを知るには、うってつけの本。チガラは「共贖者」という言葉すら使っている。
▼しかし残念ながら、入手は難しいようだ。今現在、上の書誌情報からアマゾンに飛んでも、「この本は現在お取り扱いできません」と言われるだけである。下に貼るものも同じ本だと思うが、こちらは法外な値段がついているので、本物のマリア崇敬者でなくては買う気にならないだろう。

▼私にとって、カトリック信仰の躓きの石はマリアであった。聖母マリアマグダラのマリアである。
▼代父はまだ若い人であったが、熱心なマリア崇敬者で、私にロザリオのための小冊子、メダイ、スカプラリオを渡し、彼とともにマリア信者になることを要求した。私はマリアを敬愛すること自体に抵抗はなかったが、マリアを通じてでなければイエスにも神にも到達できず、言葉とは裏腹にほとんどマリアを神とするかのような信心にはついていけなかった。
▼チガラの言葉に、どうしても代父を思い出さずにいられなかった。
▼マリア崇敬が歴史的にどのように発展してきたか詳しいことは知らない。女性原理的な神々を習合せずには、キリスト教が広く布教されることも難しかったのかもしれない。しかし、やはりカトリックの聖職者が独身の男性に限られていることも、マリア論的集中の極限形態を形成した大きな要因ではないだろうか。

マグダラのマリアについては、聖母マリアのそれと同時並行で私の身に起こった恐怖体験であったのだけど、これまでも何度か書いたことはあるのだけど、今はこれ以上触れないでおこう。