本の覚書

本と語学のはなし

図説 本の歴史/樺山紘一編

図説 本の歴史 (ふくろうの本/世界の文化)

図説 本の歴史 (ふくろうの本/世界の文化)

 今月は仕事のシフトが厳しくて、思うように本が読めないし、外国語も学べない。
 最近のニュースといえば、岩波の聖書翻訳委員会訳で新約と旧約の通読を始めたこと、職場では新共同訳を続けているけど、新約を一読し終えたので、2巡目は岩波文庫の文語訳(詩篇付き)にしたこと(旧約は引き続き新共同訳である)くらいなものだ。

 すっかりキリスト教ばかりになってしまった。例外はフランス文学と日本古典文学だけ。しかし、後者は迷走していて、止めてみたり、道元に乗り換えようと清規を読み始めて気分が乗らずにまた放棄したりしながら、源氏に付いたり離れたり。決して手放してはならないという叫びが遠くに聞こえるような気がしたり、しなかったり。
 キリスト教に集中し始めて1年以上経つ。私の人生の中で、今初めて一つのことに集中している。若い頃にこういうことができていれば、もう少しまともな人生にもなったであろうが、現在の選択と集中だって本当は不本意なのかもしれない。これを余儀なくされたのは、老化による諦念に過ぎないだろうから。

 とはいえ、若い頃の怠惰な生活には今も後悔が残るようで、忘れたころに、単位が足りない、出席日数が足りない、テストに遅刻する、卒業できない、という夢を見る。
 単位に学力を保証してもらうのではない、と若い頃は思っていた。今でも基本的には同じようなやくざなことを考えている。しかし、それと私が単位を落としまくっていたこととの間には、あまり関係がない。信念を持ってボイコットしていたのではなく、ただ学校に通うために朝起きることができないだけだったのだ。布団から這いずり出るだけのいかなる理由も、当時の私は持ち合わせていなかったのである。
 まあ、今でも出勤のために起きるのは、貧困を忌避するためという以外の理由はないわけだから、やくざな性格などは年月を経て治るものではない。単位が取れないという夢が悪夢であるのも、ただ留年したら授業料を捻出できないという焦りがあるからでしかないのかもしれない。

 大学に入り直すなら何を学ぶだろうかと考えることも、以前はよくあった。しばしば夢想の対象となったのは、駒澤大学仏教学部禅学科で道元を学ぶこと、上智大学神学部でカトリック神学を学ぶこと。曹洞宗の寺に出家する、あるいはフランシスコ会などの修道院で誓願を立てる、というパターンもある。
 哲学やフランス文学を希望しないこともないのだが、それらをやるには遅すぎるし、能力も足りないと感じていた。不思議と宗教ならばいつでも始められるし、何か私にもできることがあるだろうと、不遜な思いを抱いていたのだ。
 だが、いつも諦めるのだ。結局私は学校というところに通うことはできないのだ。朝起きることができないのだから。起きるだけの理由が分からないのだから。

 そうそう、本の感想を書くのだった。
 樺山紘一編『図説 本の歴史』(河出書房新社)。本をめぐる文化をできるかぎり扱おうという欲張りな本だ。東洋のこと、日本のことにも目配りがきいている。しかし、それだけに広く浅くという内容になってしまっている。デジタル化のことも書いてはいるが、触れてみたという程度。
 目下のところ、私の関心は本の形式的、技術的な歴史の方に傾いているので、まったくのところ物足りない。

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