本の覚書

本と語学のはなし

書物としての新約聖書/田川建三

書物としての新約聖書

書物としての新約聖書

 世界で一番読まれている本だとか永遠のベストセラーだとか言われる聖書だけど、意外と我々は聖書がどんな書物なのかをよく知らない。もちろん、日本人だからキリスト教には馴染みがないという人は多い。
 しかし、そういう話ではない。田川のようにクリスチャンの家庭に育った人でも、よく分からなかったのだ。若い頃にこんな本があれば、あたら時間を無駄にせずに済んだだろうに、と、そんな思いでこの本を書いたのである。これは田川自身が自分で読みたかった本なのだ。

正典化の歴史

 全体は4章に分かれる。第1章は正典化の歴史。
 聖書は1人の人物が書いたのではない。正典編集委員会のようなものを作って、計画に従って執筆したわけでもない。別々の場所で、別々の時代に、独立して書かれたものである。
 影響関係はある。福音書で言えば、現在の通説では、先ずマルコが書かれ、マタイとルカはこれを参照しつつ、共通の語録(Q資料と言われるが、理論的に想定されているだけで、写本などが発見されているわけではない)と独自の資料を用いて、それぞれの神学を表現したということになっている。書き換える必要があると思われていたのかもしれない。
 こうしたバラバラに書かれた書物が、どうして一つの正典へと結集されたのか。最初に新約を独自の仕方でまとめたのは、異端のマルキオンである。正統派の側は異端によって正典化を促されたのだ。
 しかし、どのような過程を経て現在あるとおりの聖書になったのか、文書の選択(後の正典文書と同時期には、使徒的教父文書や後に偽典と呼ばれる文書も書かれていた)と配置(当時の写本の形態も考慮しなくてはいけない)については、あまり詳しいことは分からないようだ。
 ただ、何か宗教会議のようなものが開かれて、満場一致で27文書が選定され、その並べ方も統一されたなどということはない。アタナシウスが367年に27文書の新約正典を主張するまでは、今日の正典でさえ一部には反対意見に曝されている文書もあったのである。

 さて、キリスト教は正典宗教と言われる。しかし、初期キリスト教はまだ正典を持っていなかった。これをどう考えたらいいだろうか。

新約聖書の言語

 第2章は新約聖書の言語。
 新約聖書ギリシャ語で書かれている。当時の地中海世界で共通語として使われていたのだから当然のことだ。と、いうわけには、実は行かない。
 都会であれば、一応はギリシャ語は通じる。しかし、全ての人がギリシャ語に通じていたわけではない。田舎ではなおさらだ。イエスだって、おそらくアラム語で話していただろうが、ギリシャ語(やラテン語)はほとんど知らなかっただろう。ギリシャ語を話すパウロの伝道がどこで成功し、どこで失敗したかということも、当時の言語事情と密接に関係している。
 だから、聖書の記者たちがギリシャ語で執筆しているからといって(マタイは最初ヘブライ語ないしアラム語で書かれたという説もあるが、今日の通説では否定的されているようだ)、決して全員がギリシャ語の達者だったわけではない。特にマルコなどはかなりぎこちないし、セム的な癖が随所に現れる。

新約聖書の写本

 第3章は新約聖書の写本。
 グーテンベルク活版印刷を発明するまで、聖書は手書きの写本で伝えられてきた。その間に写し間違いがあったり、間違いを訂正するつもりで手が加わってしまったり、後世の神学が入り込んで来たりしつつ、いろいろな変化を来してしまったわけだが、聖書の場合、他の古典作品に比べて格段に残された写本が多い。比較校合してゆくと、だいぶそれらしいテキストが出来上がるのである。
 文献学の精華としてネストレの新約聖書がある。編集者たちが一番確からしい本文を確定している。しかし、それだけではなく、脚注に大量の異読が様々な記号や略語とともに示されている。新約学者はこれを見ながら、自分で正文批判をするのである。
 序文や巻末の記号、略語の説明を注意深く読めば、ネストレを使いこなせるようになるのかもしれないが、私はちょっと面倒なのであまりアパラトゥス(欄外注)を見ない。だが、田川が重要な大文字写本とその性格、写本の型(アレクサンドリア型、ビザンチン型、西方型、カイサリア型など、写本にも幾つかの系統がある)、異読の利用の仕方の実際を簡単に示してくれるので、なかなか便利だ。

 ネストレと本文は同じだが(編集者が同じなので)、アパラトゥスが分かりやすく単純化された(?)テキストとして、アメリカのThe Greek New Testamentがある。異読の確からしさに等級を付けているらしい。また、メッツガーが異読の解説を施した正文批判のための註解書も出ている。
 ネストレが使いこなせれば必要ないものらしいけど、一応買っておこうと思う。

新約聖書の翻訳

 第4章は新約聖書の翻訳。
 ドイツ語、フランス語の後、詳しく英語と日本語の翻訳史が語られる。
 英訳というと先ず欽定訳が思い浮かぶが、実は独自の翻訳というよりも、ほとんどティンダル訳を受け継いだものらしい。それにジュネーブ聖書を加えて、もっと逐語訳的にしたのが欽定訳である。ちなみに、ティンダルは聖書の翻訳などに手を染めたということで、死刑に処せられている。
 田川が推薦する英訳はRSV。私が持っているNABについても概ね好意的である。嫌いなのはNEBとかTEVといった換骨奪胎の意訳である。NIVなどになるともう相手にもしない。

 日本語訳では口語訳と新共同訳。文体には苦言も呈するが、新約は口語訳の方に軍配を上げる。加えてフランシスコ会訳。
 共同訳はNEBやTEVと一緒でくそみそにけなされる。ナイダ主義に新植民地主義の匂いをかぎ取って、よほど不快になるらしい(同じ理由で、例のThe Greek New Testamentにも手厳しい)。
 岩波の聖書翻訳委員会訳はこの本を書き終える頃にようやく出たもので、ぱらぱらとめくってみた感じでは新共同訳よりもいいのではないかと書いている。しかし、現在刊行中の新約の訳注においては、その評価を完全に覆している。
 新改訳はNIVと同じ扱い。論ずる気もないということで済ませている。私はこの訳をほとんど読んだことがないから、それほどに原理主義的であって、学問的批判に耐えられるものでないのかどうか、よく分からない。

新約聖書概論

 さて、この本は「新約聖書概論序説」である。個々の文書がいつどこで誰によって何の目的で書かれたのかというようなことは、「新約聖書概論」に書かれることになる。田川はそれを執筆することも自分の義務であると、後書きで書いている。
 それから20年近く経つ。しかし、聖書の訳注は進んでいるものの、概論は未だに出版されていない。訳注第1巻の序文では、概論の仕上げ段階に来て、概論と訳注の順序が逆でないかと思ったと言っているから、まだ暫く出ないのかもしれない。もうだいぶ高齢だと思うので、精力的なのはいいのだが、健康には気を付けてもらいたいものだ。