本の覚書

本と語学のはなし

マルティン・ルター/徳善義和

ルターの名

 ルターの本来の家族名はルダー(Luder)である。ところが、1517年10月半ば頃から、ギリシア風のエレウテリウス(Eleutherius)という名前を使い始めた(当時、人文主義者の間で流行っていたという)。エレウテロスといえばギリシャ語で「自由な」という意味である。同年11月には「兄弟マルティヌス・エレウテリウス、しかしながら、まったくの僕で捕われ人」という署名も現れることから、単にルダーとの音韻的類似だけではなく、「キリスト者の自由」についての逆説的な神学的考察を織り込んだ名前であったようだ。
 一方、エレウテリウスと同じ頃に、ルター(Luther)という名前も用いられ始める。元来のルダーがエレウテリウスによって揚棄された形態というべきだろうか。95箇条の提題を添えて送った、マインツ大司教宛ての手紙に初めて現れるという。やがて彼の名は、今日我々が知るとおり、ルターに統一されていった。

改革者ルター

 ルター自身は宗教改革など始めるつもりではなかったのかもしれないが、歴史は彼の登場を既に欲していたのである。一旦彼の頭角が現れるや、敵対する陣営までもが彼に歴史の主役を担わせる役回りを積極的に演じ始めたかに見える。
 ルターの活動は多岐にわたる。最重要なのは聖書の翻訳である。民衆に聖書の言葉を伝えるため、説教にも力を入れた。それをもとにドイツ語で著述し、活版印刷を用いて出版もした。文字の読めない者も多数いたから、教育への提言も行った。それとも関係があるだろうが、礼拝における讃美歌の創始はルターであるという。
 また、ルターは礼拝における「神の奉仕」を、「神への奉仕」ではなく「神による奉仕」と捉えた。「十字架の神学」が目に見える形で示される場であったのである。

ルターの限界

 新書なので、大まかな知識を得るにはよいのだけど、やはり物足りない。しかし、その簡潔な記述の中にも、著者はあえてルターがナチに利用された歴史に触れている。
 時としてかなり激越なことを口にするルターであったから、ユダヤ人の改宗に関して自分の期待が外れると、激しくこれを非難した。こうして『ユダヤ人とそのいつわりについて』という本は400年後に都合よく抜き書きされ、反ユダヤ主義の宣伝に用いられた。ルターは英雄に祭り上げられ、彼のコラールは軍人たちのがなり声で歌われ、軍靴の響きとともに戦地に赴いたのである。

教会へ?

 さて、こういう本を読むと、はたして自分は本当にカトリックでよいのだろうかと思うわけである。
 仮に私にキリストへの信仰があるとする。どうしても教会に行きたくなったとする。じゃあ、どこに行ったらいいのだろうか。
 カトリックで受洗したのだから、カトリック教会に行くのが楽でいいだろう。だが、どうも余計なものが多すぎるという気がする。たとえば私が教会から離れた理由の一つは、代父の熱心すぎるマリア信仰にあったのではないか。
 残る選択肢は、日本基督教団の組合派系の教会か日本ルーテル教団の教会か。私の勝手なイメージでは、前者は新約聖書学のような危険な学問に首を突っ込んでいても比較的寛容そうだし、後者は信仰のモデルとして確固とした人物像があるというのはうらやましい気がする(半面恐い気もするが)。しかし、カトリックからの転宗となれば、何か熱い言葉の滔滔と流れ出すのを期待されそうで、ゆるい信仰以上のものを持てそうにない私には敷居が高いのである。
 結局教会には通わず、一人でキリスト教の本ばかり読んで、ますます信仰を失っていくことになりそうだ。