本の覚書

本と語学のはなし

ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読/多木浩二

 後半にベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」の本文*1が掲載されているので、先ずそちらから読んでみた。想像していたほど意味不明ではなかった。赤線を引いた箇所は大方、前半の多木浩二の解説の中で引用されている文章だったから、ポイントもそれほど外していなかったようだ。
 だが、これを要約しようとすると、うまく出来そうにない。

 簡単に言えば、芸術の歴史の転換点に関する冒険的な考察である。
 複製技術というのは、具体的には写真や映画のことである。今ではもう複製なんて当たり前すぎて、学術論文でさえコピペで済ませられる時代になったから、どれほど古色蒼然とした陳腐な議論が展開されるのだろうかと思うかもしれない。しかし、我々が当たり前すぎて見失っているものを、技術的な萌芽の時期に彼は、史的唯物論まで持ち出して刺激に満ちた予言を語っていたのである。
 芸術は先ず礼拝的価値を持つものとして登場した。そこにはアウラがあった。アウラとは必ずしも対象の持つ偉大な力というわけではなく、時空の縺れの内に遥かに呼吸される1回限りの現象のことである。
 しかし、複製の技術はアウラの凋落をもたらした。芸術の価値は徹底的に展示的価値へと変容し、これまで自然の征服をこととした技術が、人間と自然の距離を取り始める。新たな関係を規定するのは遊戯である。それとともに知覚の様式にも変化が生じ、力点は触覚に置かれるようになる。
 ところで、触覚というのは手で触るというような一般的な意味で使われているのではない。「時間をかけ、思考にも媒介され、多次元化した経験にともなう知覚を「触覚的」(ラテン語起源のtaktileをベンヤミンは使う)と呼ぶのである」(p.122)。

 と、ここまで書いてきて、何も重要なことは押さえられていないんじゃないかという気がしてきた。というか、簡潔にまとめようとすればするほど、いろんな疑問も湧いて出てくるのだ。
 ただ、ベンヤミンは最新の芸術である映画の中に希望だけを見出していたのではないことは付け加えておこう。以下の引用はベンヤミン自身の言葉である。

観客崇拝もまた、スター崇拝と並んで、大衆の心性の腐敗を促進しているが、この腐敗した心性こそ、ファシズムが大衆のなかに、階級意識に代えて植えつけようとしているものにほかならない。(p.167)

現代人のプロレタリア化の進行と、大衆の組織化の進行とは、同一の事象の二つの側面である。新しく生まれたこのプロレタリア大衆は、現在の所有関係の廃絶を目指しているが、ファシズムは、所有関係には手を触れずに、大衆を組織しようとしている。そのさいファシズムは、大衆に(権利を、ではけっしてなくて)表現の機会を与えることを、好都合と見なす。所有関係を変革する権利を持つ大衆にたいして、ファシズムは、所有関係を保守しつつ、ある種の〈表現〉をさせようとするわけだ。理の当然として、ファシズムは政治生活の耽美主義に行き着く。(中略)
政治の耽美主義をめざすあらゆる努力は、一点において頂点に達する。この一点が戦争である。戦争が、そして戦争だけが、在来の所有関係を保存しつつ、最大規模の大衆運動にひとつの目標を与えることができる。(p.184-185)

 これに対しては、芸術の政治化が必要である。

*1:ボードレール他五篇 ベンヤミンの仕事2』(岩波文庫)所収の野村修訳である。原題の「複製技術の時代における芸術作品」は長すぎて引用に不便なせいか、「複製技術時代の芸術作品」と改題されている。