本の覚書

本と語学のはなし

スピノザ 無神論者は宗教を肯定できるか/上野修

珍しい『神学・政治論』入門

 上野修NHK出版の「哲学のエッセンス」シリーズの執筆依頼を受けた時、既に『スピノザの世界 神あるいは自然』(講談社現代新書)を書き始めていた。こちらはスピノザの表玄関ともいうべき『エチカ』を扱っている。だから、異例のことかも知れないが、小さなスピノザ入門を書くにあたって、上野はその裏口とでもいうべき『神学・政治論』を論じることになったのである。
 しかし、その裏口には問題があった。果たして表玄関と裏口とは同じ一つの建物の中で本当に繋がっているのか、よく分からないのだ。『エチカ』ですら一つのラビリンスであるのに、『神学・政治論』などをまともに考慮に入れなければならないとすれば、スピノザを理解するのはほとんど不可能なのではないかとすら思えるのである。
 そんなわけかどうか、今この本は入手不可のようだ。「哲学のエッセンス」全24冊の中で古本でなければ手に入らないのは、他に頼住光子の『道元 自己・時間・世界はどのように成立するのか』があるだけだ。ちなみに私は、何冊か買ったシリーズの中で、たまたまこの2冊だけ手元に残しておいたのだった。よほど世間の感覚からずれているらしい。まあ、他の本が単に売れ残っているだけかもしれないけど。

かいつまんで

 さて、肝心の内容だが、面倒臭いので簡単に要約しておく。

 当時オランダの宗教界は正統派とリベラル派に分裂しており、その宗教対立は総督派と共和派という政治対立にも直結していた。『神学・政治論』を無神論の書物と糾弾したのは、あろうことかリベラル共和派の方であった。上野はこの本を読む時、「自由の実験のチャンスと試練」という文脈を忘れてはならないと言う。

 前半は神学部門である。
 リベラル派は哲学の真理と宗教の真理の調和点などと言うありもしない架空の点をめぐって不安を募らせていた。だが、スピノザに言わせれば、哲学は真理の文法に従い、宗教は敬虔の文法に従う。領域が違うのであり、その間には衝突も妥協もあり得ないのである。
 なお、スピノザは『ヘブライ語文法提要』という草稿も残しており、近代的な文献学的聖書解釈の先駆けとも言われている。

 後半は政治論部門である。
 敬虔の文法に従う時、人はその自然権を神に、あるいは共同社会に移譲する。そこに「神の統治」なり「人民の統治」なりの契約が成立する。
 無神論者(あるいは同じことかも知れないが汎神論者)であるスピノザは、宗教を肯定する。そして共和制を肯定し、その最高権力を肯定する。だが、その最高権力の「できる」ことには限界があり、自然的法則の限界内でのその範囲をどこに求めるかは、力学の範疇に入る。
 ちなみに、表現の自由に関するスピノザの考えは、敬虔と共和国の平和を損なうことなしに許容される(ただし、社会契約を実質的に破棄するような言動は例外)。この自由が除去されれば、共和国の平和も敬虔も同時に除去されなければいけない、というものだった。

 こう言えばよいだろうか。スピノザは宗教を、その真理性という点ではまったく信じていないが、それがそんなふうに言う正しさ、そしてその正しさの解消不可能性という点では全面的に受け入れる。スピノザは真理として肯定するという意味のaffirmareと区別して、両腕を開いて抱き包む、受け入れる、という意味のamplectiという語をニュアンス深く使っているように思う。たとえ真理でなくても受け入れる、のである。こういう受け入れ方は欺瞞的だろうか?(p.97)

スピノザ・ブーム?

 果たして巷ではスピノザのブームが到来しているのだろうか。しかも、『エチカ』と並ぶもう一つの主著でありながら、これまでほとんど一般の注目を集めたこともない『神学・政治論』が、どうしたわけか脚光を浴び始めたのだろうか。
 今月は光文社古典新訳文庫から吉田量彦の新訳『神学・政治論』が出る。岩波文庫の畠中尚志訳は古本でなら割と容易に入手できるが、旧漢字のせいで実際以上に古めかしく見えてしまう訳に、きっと読む前から気力を削がれることだろう。スピノザの著作なんて全部合わせても大した量ではないのだから、これを機に全訳を目指してほしいものだ(この際、思いっ切って『ヘブライ語文法提要』や科学論文なども!)。
 来月は上野修の『スピノザ「神学政治論」を読む』という論考がちくま学芸文庫から出る。上野の本はこれまでに『エチカ』を扱った『スピノザの世界 神あるいは自然』も読んだことがあるけど、なかなか分かりやすく解きほぐして紹介してくれるのでありがたい。『スピノザ 無神論者は宗教を肯定できるか』からもう一歩踏み込みつつ、名人芸を発揮してくれるのではないかと期待している。

 この二つの新刊の出版が偶然の一致でないならば嬉しい。全くの見当外れかもしれないが、新訳の出版は上野の入門書が何かしらの引き金になってるのだとすれば、やはり繋がりはあるのだろう。
 新訳が出ることを知ってまたスピノザを少しずつ読んでいこうと決意した私も、この輪の中に少しだけ連なることができるかもしれない。