本の覚書

本と語学のはなし

シュライエルマッハーのクリスマス/シュライエルマッハー

 神学関係の訳書は幾つか読んだけど、どれも翻訳には感心しなかった。しかし、この本のひどさは別格である。「これ翻訳ソフトで訳したんだよ」と冗談に言う人があれば、誰でも真顔でこう答えるだろう。「やっぱり翻訳ソフトじゃ、百年かかっても生の人間の訳には敵わないよね」。
 いや、下訳は翻訳ソフトがやったのであって、訳者の仕事は女性のセリフの語尾を「~でなくってよ」にするだけであったのではないか。私は今でも半分そう疑っている。堅苦しい直訳で、読点がほとんどなく言葉のかかり具合がしばしばあいまいで、日本語としても相当おかしい。たとえ元のドイツ語に引きずられたとしても、日本語を母語とする生身の人間がこんな日本語を公にできるはずがない。
 たとえば、こんな文章はどうだろう。

しかしながらその贖罪の概念にかかわりなくもし我々がその方の本質が教義の宣教とキリスト教会の創設の中に捜されるべきであるところのイエス・キリストの人としての活動を考察するならばキリスト教の現在の形状の中で人がその役割をキリストに帰することがいかに小さいかということは驚きに値するね。(p.95-96)

 原文を見ていないからその趣旨を外しているかもしれないけど、純粋に翻訳技術の面からのみ添削するならば、以下のように訳すのが常道だろう。

贖罪の概念はこういうものだというのに、まったく驚くばかりですよ。人間としてのイエス・キリストの活動を考えると、その本質〔「活動」の原語が男性名詞か中性名詞の単数形なら、「その」の先行詞は「活動」である可能性が高い。女性名詞または複数形なら、取り違えの可能性はない。松井訳の通り「イエス・キリスト」だろう。〕というのは、教えを宣べ伝え、キリストの教会を作り上げていくことに見出していかなくてはならないはずなのです。ところが、現状のキリスト教会じゃあ、宣教も教会設立もほとんどキリストに負うところがないかのようなんですからね。

 そんな訳で、まったく内容が頭に入らなかった。ただし、カトリックに対する批判には過剰に反応してしまったかもしれない。いまなお二百年前とイメージは変わっていないと思うので。

聖書を全く手にすることなく家族のことだけを顧慮するローマ・カトリック教会を考えに入れないとするならば…… (p.92)