本の覚書

本と語学のはなし

魔女狩り/森島恒雄

魔女狩り (岩波新書)

魔女狩り (岩波新書)

 魔女は昔からいた。しかし、罰せられるとすればその術によって人畜に危害を加えた場合だけである。刑法犯であって思想犯ではなかった。
 ところが、中世、教皇権が絶頂に達した頃、それと無関係ではないと思うが、南フランスを中心に異端が拡がった。教会は十字軍を派遣し、その後異端審問制度を確立させて、これを撲滅しようとした。当初魔女は異端審問の中で裁かれるべきものではなかったが、やがて魔女は悪魔と契約を交わした異端中の異端として、熱狂的に追及されるようになった。

 魔女は怪しげな薬を調合して人畜に被害をもたらす。箒にまたがり空を飛び、魔女集会(サバト)に行き、悪魔の尻に接吻をして契約を交わし、性行をする。集会に出席した者には、結託の印として魔女マークがつけられる。

 魔女を告発するには、噂だけでも十分であった。取り調べを受ければ、拷問によって自白を強要される。公式には拷問をしていないことになっていても、今日拷問と呼ぶに一瞬たりとも逡巡しないようなことが行われていた。自白はほとんど一定の型にはまっている。魔女裁判の教科書通りに誘導されるのだから当然である。仲間も白状しなくてはならない。指名されてしまった仲間も、同じ運命をたどる。一度審問に引き立てられれば、生きて釈放されることはほぼありえないのである。魔女にとっては、自白して縛り首の後焼かれるか、自白せずに生きたまま焼かれるかの選択しか存在しないのだ。

 魔女狩りカトリックが始めたが、プロテスタントによって増幅されもした。最近私は旧教よりも新教の側に関心を持っているが、宗旨替えをしたところで(前提となる信仰心はあまりないから、ヴィヴィッドな仮定ではない)歴史の軛から自由になれるものではない。

 最も過酷に魔女裁判が行われていたドイツで、最も猛烈に魔女旋風が吹き荒れていた頃の懺悔僧フォン・シュペーは、こう書いている。

 第十五問「魔女狩りを扇動するものは誰か」――答。静かに思弁をたのしみながら、汚い牢獄も重い鎖も拷問器具も哀れな人間の悲嘆も知らない神学者と高位聖職者。魔女裁判を儲かる仕事と考えている裁判官……。
 第二十問「拷問をどう思うか」――答。拷問をのがれるためなら死んでもいいほどその苦痛は激しい。もっとも頑丈な囚人すら、拷問を少しでも緩めてもらうためにはどんな罪でも自白する、と私に打ち明けた。彼らは拷問を、もう一度繰り返されるよりは一〇回死ぬことを望むのだ。……多くの者がきびしい拷問で死に、生涯かたわになり、体は引き裂かれる。その傷を見物人に見せないよう、処刑吏は魔女の首を斬り落とすときでも上体を裸にはしない。……(すでに拷問で弱り果てているため)処刑場への途中で死ぬ恐れがあるので大急ぎで運ばねばならぬこともある。……鉄のプレスで向こうずねを圧しつぶされ、血がほとばしる苦しみも、「拷問を受けることなく」と発表されるので、裁判官の専門用語を知らない者はだまされるのだ。(p.198-199)

 処刑は異端審問の場合と同様、教会が自ら行うわけではない。教会は被告を「世俗の腕」に下げ渡すだけである。世俗の法廷において死の宣告が緩和されることを祈りつつ。