本の覚書

本と語学のはなし

聖書についての101の質問と答え/レイモンド E. ブラウン

 カトリック新約聖書学者によるQ&A。実際に講義や講演会や勉強会で質問されたことをもとに構成されており、解答もかなり実際的な雰囲気で書かれている。もって回った回避的な言い回しまで再現されていて読みにくい部分もあるが、読みにくさの大半は翻訳のせいだろうと思う。

 カトリックの教義と聖書とは全く抵触しないという立場を取っている。だがそれは、カトリックの教義が常に明確に聖書から帰結されているということを意味しない。例えば、マリアの処女懐胎について、聖書にはそう書いてあるが、これを歴史的事実と見なすか象徴的神学的記述と見なすかは、微妙な問題である。

 だからカトリック信者にとっては、単に聖書の無謬性ばかりでなく、教会の教えも、処女懐胎の歴史性を検討するにあたっての神学的な要素となるでしょう。信条でも、公会議でも、また教皇が出した文書においても、教会は、処女懐胎の文字どおりの歴史性は神によって啓示され、そして信仰箇条として受け取られるべきだ、という公式の声明を出したことはいまだかつてないのです。しかしながら何が信仰内容であるかについて案内役を務める通常の教えによって、教会は処女懐胎を文字どおりの歴史的な事柄だと、暗黙のうちに主張してきている、と私は思います。カトリック信者として、私がとらえる聖書にもとづく教会の基準的な教えは、聖書箇所があいまいであったりあるいははっきりしないものである場合には、特別な支えになると見なすので、私は処女懐胎を受け入れるのです。(p.154)

 もう一つ、カトリックではペトロを初代ローマ教皇としているのだが、これも聖書から直ちに導かれる結論ではない。

 六〇年代にかかわる問いを回答可能な問いに、つまり次のようにいい換えるのがよかろうと思います。「この時代のキリスト者たちは、ペトロを教皇と見なしていたのか」ではなく、「この時代のキリスト者たちは、ペトロを本質的な点で、後代の教会における教皇職の役割が発展することに貢献する種々の役割をもつ者、と見なしていたか」です。答えは、はい、そうです、だと私は思います。ペトロが生存中持っていた役割と、死後なお彼に結びつけられた象徴性を指摘しました。先回の問いへの答えで、説明を試みたとおりです。私の考えでは、それらはローマの司教を、ペトロが亡くなった都市の司教を、ペトロの後継者として普遍教会の世話にあたりつつ、キリストの真理をあかしした都市の司教を、理解するにあたり多大な手がかりを与えるものです。(p.231-2)

 イエスが必ずしも明確な青写真を持っていなかったことでも、そこに示された芽が後に花開いたとすれば、正しい聖霊の導きであるとも考えられている。
 こうした態度は中途半端に進歩的であるという印象を与えるかもしれないし、私もまだるっこいという気はするのだが、カトリックというのはこれでよいのだ。

 最後にアメリカで増えているらしいファンダメンタリストと対話する際の指針が示されている。一般にファンダメンタリストは逐語霊感説を採り、聖書の言葉は一字一句誤りのないものと考える。カトリックはそのようには考えないし、プロテスタントでも自由主義新正統主義では逐語霊感説を退ける。

 神が人類の救いのために意図した真実を、聖書は誤りなく伝えるとカトリック教会は教えます。その意味で聖書の無謬性を主張するのであって、カトリック教会は聖書記者たちが思いつきもしなかったいろいろの問題に、聖書に答えさせようとする現代的たくらみを容認しません。べつの状況を想定した聖書テキストを取り上げて、現今の状況に無条件にあてはめる企てに抵抗します。カトリック教会での実践と「文字どおりに」解釈する立場のあいだにいくらかあつれきがありますが、それはまさにこの点にもとづきます。カトリック教会は教会のどんな立場も聖書を文字どおりに解釈する立場と衝突することはないと信じます。「文字どおり」がつぎのことを意味する場合には、です。つまり著者が執筆時に意図したことは、私たちの救いのために神が望んだ真理の伝達を意味する場合には、です。カトリック教会は時代の制約を受ける聖書記者たちの能力を超える科学的、歴史的言説を支持するために、聖書解釈を利用することには抵抗するものです。(p.246-7)

 要するに、カトリック自由主義的、もしくは単なる恣意的行き過ぎにも与しないが、聖書のあらゆる記述を歴史的事実として受け入れることもしないというのである。