聖者というのは、もちろん教会の公式手続きを経て宣言されるものなのだけど、奇跡の認定には教会はやや及び腰であるようだ。たとえば空中浮揚をしたためにパイロットと宇宙飛行士の守護聖者となったコペルティーノのジュゼッペは、生前から教会に不快感を与えていたし、列聖の理由も単に忍耐心と謙譲心ということになっている。比較的最近の例で言えば、ベルデナットはルルドにおいて聖母の訪問を度々受けた。おかげでルルドの泉は世界的な巡礼地となったのだが、彼女の列聖の理由もまた、単に謙譲心と信仰心によるものである。
聖者は古代から中世において、民衆の多神教的傾向を満足させるための装置として機能してきた。プロテスタントにおいては迷信として退けられている。現代日本においても、大部分が伝説に彩られた聖者たちに熱心に執り成しを祈る理由はそれほどないのではないかと思う。重要なのは、史実として確実なものはそれに学び、そうでない部分については民衆が何をそこに投影しようとしていたのかを学ぶことだろう。
私のクリスチャン・ネームはアウグスティヌスである。神学者の守護聖人である。アッシジのフランチェスコはエコロジストの守護聖人。お世話にならなくてはいけないかもしれないのは、ブノワ・ジョゼフ・ラブレ。聖なる放浪者として、ホームレスを守護している。