- 作者:松永 久次郎
- メディア: 文庫
ロザリオの祈り
ロザリオはネックレスやブレスレットとして用いる装飾具ではなく、祈りのための道具である。珠は祈りの回数を数えるために用いる。
祈りの形式はだいたい決まっている。
導入では、輪の外に垂れた部分を用いる。十字架で「信徒信条」を一回、それに続く珠で「主の祈り」を一回、次の三つの珠で「アヴェ・マリアの祈り」を三回、最後の珠で「栄唱」を一回唱える。
本編の祈りでは、輪の部分を用いる。メダルから始めて「主の祈り」を一回、次に「アヴェ・マリアの祈り」を十回、最後に「栄唱」を一回唱える。これが一連。これを五回繰り返すと、ロザリオの輪を一周する。これが一環。これを三回繰り返すと祈りが完成するのだが、一遍に三周するのではなく、決まった曜日に一日一環ずつ祈るのが普通である。
三つの環にはそれぞれテーマがあり、各連で黙想すべきことも定められている。『コンペンディウム』(カトリック中央協議会)の表記に従ってまとめておく。*1
喜びの神秘 (月・木曜日)
第一の黙想 マリア、神のお告げを受ける
第二の黙想 マリア、エリザベトを訪問する
第三の黙想 マリア、イエスを生む
第四の黙想 マリア、イエスをささげる
第五の黙想 マリア、イエスを見いだす
無原罪と被昇天
「栄えの神秘」の第四、第五の黙想は、プロテスタントにとっては受け入れがたいカトリックの教義に基づいている。カトリックではそもそもマリアが無原罪で生まれたと主張する。そして一生童貞を貫き、亡くなって後天に上げられた(神ではなく自ら天に上ることはできないので、イエスの昇天に対し、マリアの場合「被昇天」と言われる)。既に天にあるから神への取り次ぎができる。だからカトリックは、マリアを女神として崇拝し祈るのではなく、マリアに取り次ぎの祈りを祈るのだという。
ただし、教義として確立されたのはそう古い話ではない。「無原罪の御宿り」が宣言されたのは1854年、「聖母の被昇天」に至ってはようやく1950年になってのことである。
被昇天のお恵みによって、人間の救いはマリアにおいて完成したことになります。そして私たちすべては、このマリアとのつながりの中で、マリアをモデルにして救いに与かることになったのです。この意味で、キリストのご昇天と、マリアの被昇天との間には深いつながりがあります。救い主キリストにおいて、私たちの人間性は御父のもとに帰りました。いとも優れて救いに与かったマリアの被昇天によって、一キリスト者が人間性のすべての要素と共に、御父のもとに帰りました。このあとは、キリスト者である私たちが、マリアをモデルとして、マリアの助けのもとで、キリストにつながり、御父の光栄に与かることだけが残されているだけです。聖母の被昇天は、私たちにこの救いの完成の姿を明らかにしているのであり、これによってマリアは、私たちの救いの完成のための力強い代祷者となられたのであります。(p.122)
十字架の道行き
この本の後半には、同じようにして十字架の道行きの祈りが解説されている。十字架の道行きとは、死刑宣告から、十字架を担っての道行き、十字架上の死、そして墓への葬りまでを十四の場面に分け、絵やレリーフなど(教会内部や庭に設置されている。私が学生時代に買ったキリスト像には、道行きの各場面が付けられている)を見ながら、キリストの受難を追体験しつつ黙想する祈りである。
実際にエルサレムに巡礼し、ヴィア・ドロロサを歩くという経験はなかなかできないので、このような祈りが発展したのだろう。
誰が読むべきか
シスターたちに話したことをもとに書かれており、やさしい語り口調で分かりやすい。カトリック信者ではあるが、どのように黙想していいのか分からずロザリオから遠ざかっているという人が読む本である。
あるいは、十字架の道行きの祈りをする機会はあまりないので(たぶん個人ではほとんどやらないし、教会でも年一回くらいではないか)、忘れがちなその意味を思い出したい人が読む本である。私は第五留のキレネのシモンの助力の辺りが好きである。
カトリックでない人が読む意味はあまりないけれど、教義云々はひとまず措いておいて、カトリックの心情がどういうものか知りたいならば、絶好の読み物である。カトリックにおけるイエスとマリアの像は、この二つの祈りの内に凝縮されているし、この祈りを祈るとき信心深いカトリックが何を考え感じているのか、よく表現されている。
付記
ロザリオの図版は小高毅『よくわかるカトリック』(教文館)より借用した。また、ロザリオの説明も同書に負うところが多い。
*1:『コンペンディウム』には、この他に「光の神秘」も載せられている。十字架に至る前までの公生活を黙想するものである。これに割り当てられているのが木曜日にあたるため、「喜びの神秘」は月・土曜日、「栄えの神秘」は水・日曜日に祈ることになっている。