本の覚書

本と語学のはなし

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 鏡島元隆監修『原文対照現代語訳道元禅師全集 第十五巻 清規・戒法・嗣書』。道元といえば作法マニアであって、『正法眼蔵』の中にすら洗面や歯磨きなどの方法を細かく書いたところがあったりして、しかもそれがそのまま仏法であると荘厳な言説へと展開していく。体を洗えば単に垢が落ちるだけでなく、仏の身体を獲得するのである。カトリックにあってはウエハースのような聖体が秘跡を通じてキリストの体となるのだけど、曹洞宗においては威儀を通じて僧の肉体がブッダのそれとなるのであり、それは僧同士においても、自らに対しても、供養していかなければならないのである。
 したがって、叢林生活を規定する清規や戒法も、道元にあっては単に外見的な決まり事というのではなく、すべて仏法の実践に他ならない。有名な『典座教訓』が典座(食事係)の役割の規定としてのみならず、仏教入門としても広く読まれるのはそんな訳による。
 一方、道元は嗣書マニアでもあった。嗣書とは師が弟子に嗣法を印可したことの証明書である。中国留学中も、普通は人に見せない嗣書を、頼みこんで幾通か見せてもらっている。坐禅して仏になるのなら(臨済宗の場合であれば、悟りを開いて仏になるのなら)、師の証明など必要なさそうなものだが、釈迦以来の法脈が示されたその紙があって初めて、釈迦へと連なる正統の弟子であることが証明されるのである。私は道元カトリックに重ねて読んでいることが多い気がするのだけど、おそらくここでもイエスの据えた岩(ペトロ)に連なる教皇の系譜を考える際のヒントにしているのかもしれない。

 およそ十四年かけて、ようやく現代語訳つきの新全集が完結した(その間『正法眼蔵』を担当していた水野弥穂子がなくなったことについて、書いたことがある)。まだ十分この全集を活用してはいないけれど、この本の刊行がなかったら、道元など理解不能であるとして敬遠したままであっただろう。