本の覚書

本と語学のはなし

道元禅師全集(十七)/道元


道元禅師和歌集
 道元の和歌として伝わっているものの数は少ない。それらが必ずしも真作とは限らないし、道元が詠んだままを伝えているかどうかも知る由はない。和歌の体裁を取っているものの証道歌であって、一言一句をもおろそかにしてはいけない作品として作られたものではなく、後世に残そうという意識もなかったかもしれない。
 有名なものをひとつ。本来面目(本来の自己)を詠ったものである。

 春は花夏ほととぎす秋は月
   冬雪きえですずしかりけり


 一般には面山の『傘松道詠』に見られる「雪さえて」の形で流通しており、川端康成が引用したのもこちらである。良寛はこれに応えるようにして和歌を残している。

 形見とて何か残さん春は花
   夏ほととぎす秋はもみぢ葉


 もう一つ。

 草庵にねてもさめても申すこと
   南無釈迦牟尼仏憐み給へ


 これに対して良寛

 草の庵(いお)に寝ても覚めても申すこと
   南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏


 良寛阿弥陀仏の名号を唱えるのは(書にも南無阿弥陀仏と書いた有名なのがある)、もはや宗派を気にすることもなかったのだと思っていたが、黄檗禅の影響を指摘する学者もあるそうだ。


 少しく問題になる晩年の二作は、証道歌とは言えないようだ。技巧を凝らさず素直であるのみならず、舌足らずですらある。偽作説もあり、凡夫(ただし了事の凡夫)に還ったという説もある。

 草の葉にかどでせる身の木部山(このめやま)
   雲にをかある心地こそすれ

 また見んと思ひし時の秋だにも
   今夜(こよひ)の月にねられやはする


御遺言記録
 永平寺第三世、義介による記録。いかなる意図をもって書いたのかは不明である。仮のメモと解釈するしかないような部分もあり、専門家もすべてを解明してはいない。
 第一部。最晩年の道元とのやりとり。再三「未だ老婆心あらざるのみ」と言われている。禅も宗教である以上、独り悟りすまして終わりではない。
 第二部。永平寺第二世の懐奘との伝法をめぐるやりとり。発心以降にも発心し、修行を続けるところに、ようやく先師、道元の仏法を見出す。

先師の弘通せし仏法は、今の叢林の作法進退なり。正にこれ仏儀・仏法を聞くといえども、内心に私(ひそ)かに存(おも)えり、この外に真実の仏法定(かなら)ずこれあるべしと。然るに近比(ちかごろ)この見を改めたり。今の叢林の作法・威儀等は、これ則ち真実の仏法と知るなり。


 第三部。伝法儀式の詳細。初期教団の儀式を知るための貴重な資料らしい。


舎利相伝
 明全は栄西の弟子。道元とともに入宋したが、かの地で病没。道元は明全を先師と呼んで尊敬する。
 その遺体を荼毘に付したとき、舎利が生じた。舎利というのは単なる骨ではなく、球状のものを指すのだそうで、日本仏教史にはそれまで舎利の生じたためしはなかったらしい。舎利信仰に最も遠い道元と、この文章を書いた(とされる)奇瑞に喜ぶ道元とをどう結びつけたらいいのか。


参禅学道法話
 吾我を離れて修行すべしという短い法話。欠損部分が多い。


大仏寺本尊自作起請文
 大仏寺というのは後の永平寺のこと。「一生の大願に、かまゑて釈迦自ら手らつくりまいらせばやと念願つかまつりそろ」。


証悟戒行法語
 今時の僧を嘆く。「さとりと云は、別事にあらず、形式戒法立ててのちの事なり」。


発願文
 『正法眼蔵』「渓声山色」からの抜書きのようだ。鎌倉で書かれたらしい。


永平寺三箇霊瑞記
 永平寺の三つの奇瑞に喜ぶ姿は、道元のそれに似つかわしくない気がするが。


入宋祈願文
 白山信仰と道元を結び付けようとする偽作の疑いが濃い。


表書三種
 入宋時、道場での席次を巡り、三度抗議をしたとされている。受戒の早い方が上席に座るのは仏の法であり、出身国によって差別されることがあってはならないと言うのである。三度目は皇帝に提出され、ようやくその主張が認められることになる。史実かどうか問題はあるにしても(もう少し規模の小さいものであったかもしれない)、仏法のみを基準として妥協しない戦闘的な姿勢は、道元のイメージにぴたりとはまる。


明全戒牒奥書
 中国では小乗の具足戒を受けるのが普通で、日本のように大乗戒だけで済ませてはいなかった。明全はあらかじめ具足戒を受けた証明書を持って入宋した。席次の問題もそこに起因するらしいが、道元は知っていながら敢えて持って行かなかったようだ。初めから闘争するつもりだったのだろうか。


明覚寺鎮守勧請文
 年代からして大いに疑問。


宇治観音導利院僧堂勧進の疏
 京都時代、寺の建立のために寄付を募った文書。『正法眼蔵随聞記』に「今、僧堂を立てんとて勧進をもし、随分に労する事は、必ずしも仏法興隆と思はず」という言葉と併せ考えてみる必要がある。


如浄禅師続語録跋
 宋から『如浄禅師続語録』が送られてきた時に、自分の記憶に従いいくつかの問答を追加したという体裁だが、偽撰の可能性が高い。


示近衛殿法語
 これまで日本には「ただ国家を鎮護せる霊験の僧のみあり」という。


一葉観音賛
 一葉観音図につけた賛。書かれたいきさつについては、様々な伝承がある。


如浄禅師諱辰偈
 如浄十七周忌(または十七回忌)、大仏寺の伽藍がまだ整わない時の上堂と偈。


吉祥山命名法語
 山を吉祥山、寺を大仏寺と名付けた時の偈。


波多野義重宛書状
 波多野義重は永平寺の大旦那である。彼に宛てた手紙の中で、永平寺北条政子源実朝の菩提を弔うための寺であると言っているが、疑わしい。


附波多野広長偈
 波多野広長という人物、未詳。


仏前斎粥供養侍僧事
 永平寺と改称した後、叢林のルール作りに力を入れ始めた最初期の文書。


立春大吉文・冬至大吉文
 大吉大吉と連呼されてめでたいが、偽作らしい。


賜紫衣謝偈
 後嵯峨上皇から紫衣を賜ったことが史実かどうかも分からない。伝承では、幾度も辞退した末に貰ったものの、生涯身につけることはなかったいう。


蘭渓道隆禅師宛返書・(附)道元禅師宛書状
 手紙は偽物かも知れないが、二人の間にまったく交流がなかったわけではないかもしれない。


鎌倉名越白衣舎示誡
 鎌倉下向の時、『涅槃経』から抜粋したもの。阿闍世王が体調を崩した時、父殺しの報いではないかと怯えるが、六人の大臣は罪などないと安心させる。経では最後に回心に至ることになっている。しかし、道元の引用(として残っているの)は、大臣らの主張まで。伝承ではこれを北条時頼に示したことになっているが、いろいろの問題をはらんでいる。もう一度鏡島元隆『道元禅師』*1と水野弥穂子『道元禅師の人間像』*2を読まなくてはならない。


永平寺庫院規則
 寺の米の取り扱い。


永平寺告知事文
 午後に食物が供養された時の取り扱い。


十六羅漢現瑞記
 十六羅漢を供養したら瑞華が現出したという。本来比喩的な言説であると思うが、どうも怪しげな目的のために歪曲されているのではないかという気がする。


羅漢供養文
 十六羅漢供養の儀式の草稿。


尽未来際不離吉祥山示衆
 これより永平寺を離れることはないと宣言した示衆。鎌倉行化が失敗したことと関連があるのだろう。ただし、『永平広録』には収載されていない。外されたとするならその意図を考えねばならないし、当然ながら偽作を疑う人もある。


永平寺住侶規則
 寺外での諸活動の禁止。


日野根・布美両庄関係消息
 永平寺寺領の臨時課税免除に関わる消息なのだが、欠損部分が多く、内容が今一つ定かではない。


達磨賛
 達磨図につけた賛。


上洛療養偈
 1252年4月頃病が篤くなり(その頃から『永平広録』上堂の記録もなくなる)、1253年8月療養のため京都へ向かう。その時の偈とされるが、真偽は不明。


遺偈
 師の如浄の遺偈は「六十六年、罪犯弥天。箇のぼっ跳を打して、活きながら黄泉に陥つ。咦 従来の生死、相い干(かか)わらず」だが、道元のはそれに非常によく似ている。

 五十四年、
 第一天を照らす。
 このぼっ跳を打して、大千を触破す。
  咦(いい)
 渾身、覓(もと)むるなし、
 活きながら黄泉(よみ)に陥(お)つ。


 なお、「第一天」は天の最高位と従来解されてきたが、悟りへの第一段階のことであるという説も提出されているそうだ。

法語・歌頌等 (原文対照現代語訳 道元禅師全集)

法語・歌頌等 (原文対照現代語訳 道元禅師全集)