本の覚書

本と語学のはなし

鷗外歴史文学集(一)/森鷗外


西周伝(にしあまねでん)
 周の父は森家の出身で、鷗外の祖父の兄弟にあたる(鷗外の祖父は養子だから、鷗外と周の間に直接的な血のつながりはなさそうだ)。同じ藩医の家系で、家も近所であった。鷗外が東京へ出てからも、大学入学前の一時期、周の家に住んでいたことがあるから、周の死後すぐにその伝記を書く人物としてはうってつけであったろう。
 しかし、鷗外は登志子と離婚して以来、周とは絶縁状態にあった。周の留学仲間に林紀(つな)、榎本武揚、赤松則良がいる。林の弟の紳六郎は周の養子になり(周の伝記執筆を鷗外に依頼したのはこの紳六郎である)、姉妹の多津は榎本の妻、貞は赤松の妻となり、みな姻戚となった。鷗外が陸軍に入ったのは、周と林(陸軍軍医総監)の斡旋があったためである。鷗外が留学から帰って結婚した登志子は赤松(海軍中将)の娘であり、これを斡旋したのも周である。ところが鷗外は、わずか一年数か月で彼女を離縁してしまった。周が激怒するのも無理はない。
 だから随分書きにくかったのだろう。幕末維新の若い頃のことは比較的詳しく書かれているが、それ以降のことは事実の羅列に過ぎない。周は詳細な日記をつけており、鷗外の結婚と離婚も具に記録しているらしいが、むろんこの伝記の資料としていっさい採用されてはいない。
 興味深いのは、最晩年の記述に高木兼寛(海軍軍医総監)が登場すること。脚気紛争の相手方である。高木は、周が義兄弟の契りを結んだ手塚立蔵の娘・富子と結婚しており、それが縁で周の主治医となった(単なる主治医と患者という以上の関係のようだ)。なにやら象徴的である。


 言葉は漢文調、周の手記や手紙なども引用されている。注釈がついているけど、やや難しめ。歴史的背景や人物については、司馬の小説を読んでいたのが役に立った。


能久親王事蹟(よしひさしんのうじせき)
 日清戦争下関講和条約で終結し、遼東半島と台湾、澎湖諸島が日本に割譲された(遼東半島は三国干渉により返還)。しかし、戦争はこれで終わりではない。台湾割譲に憤慨した勢力が、台湾で日本軍の侵入を阻止しようと蜂起したのである。能久親王近衛師団を率いて、台湾に出征した。北から南へと縦断し、順次制圧をして行くが、明治二十八年十月、全土平定を目前にしてマラリアに倒れ、台南にて亡くなった。
 鷗外も清から帰国した後、台湾に渡っている。台湾総督、樺山資紀とともに向かい、能久親王の亡くなる前に戻っているが、そのことについては無論何も書かれていない。
 書籍は明治四十一年(日露戦争後だ)に刊行された。奥付に編輯兼発行人代表者として森林太郎の名があるだけで、目につく箇所には全て「能久親王事蹟 棠陰会編纂」とあるそうだ。有志が棠陰会を組織し、宮内省や宮家から資料を借り受け、鷗外に執筆を依頼したという事情によるらしい。本格的な作家活動を再開させる直前にあたるこの仕事は、あるいは後の歴史小説の方法に目覚めさせる契機となったものかもしれない。ただし、題材が題材でもあり、鷗外の自由はほぼ許されていないだろうから、ここではまだ文学にはなっておらず、諸資料を一本にまとめた乾燥した伝記というに留まっている。


 能久親王の青年時代も波乱に満ちている。江戸の寛永寺に入って日光輪王寺門跡を継承した。徳川慶喜に朝廷との仲介を頼まれたり、寛永寺に立てこもった彰義隊によって上野戦争に巻き込まれたり、その後東北に避難し奥羽列藩同盟の盟主に擁立されたりして、戊辰戦争後はしばらく謹慎させれらている。
 寛永寺といっても今の寛永寺ではない。焼ける以前は不忍池の弁天様の向かい、今の美術館や博物館の一帯に、巨大な寺院群があったのだ。気を付けて見れば、五重塔や御宮(東照宮)などそこここに昔の名残はある。


玉篋両浦嶼(たまくしげふたりうらしま)
 前半は竜宮城に行った元の浦島太郎。「おこと(あなた)は物の成るをよろこび、われはまたことさらに事を為さんとすれば、ふたりのこころは合ひがたし」。平和のまどろみから抜け出し事業の荒波に立ち向かおうと、乙姫のもとを去り地上に戻る決意をする。伝説に近代的解釈の心理描写を施している。趣旨は『舞姫』と同じように見える。
 後半は三百年後。子孫の浦島が海外へ戦に行こうとしているところに、元の浦島が現れる。元の浦島は後の浦島に竜宮城から持ち帰った玉を与え、舟に積み行けと励ます。日清日露の両大戦の間に書かれたものだけに、勇ましい。「おもふは先祖。行ふは子孫にこそあれ」とは果たして、文字通りの対外戦争の遂行のことを言うのか、あるいは世界に通用する日本の文化的成熟を期したものだろうか。
 日本でセリフを主とする劇を試みた最初であるらしい。


日蓮上人辻説法(にちれんしょうにんつじせっぽう)
 鎌倉で日蓮上人辻説法跡を見た時のことを懐かしく思い起こしながら読む。*1

善春 只だ訝しう存ずるは、邪宗横行の報のため他国来りて我疆(さかい)を侵すとの御詞。武を三韓に耀かしし、我日本(ひのもと)を何ものか、触れ申さうぞ。
能本 その敵国は蒙古でおりやる。


 後の『立正安国論』をここに畳み込んだと言う。もとより単なる歴史劇ではない。モンゴルとは鷗外当時のロシアに他ならない。そうすると、浦島における対外戦争も比喩的なものと考えるべきではないのかもしれない。ロシアの脅威にひるみつつナショナリズムを高揚させていった時代の陸軍官吏として、その制約を免れるべくもなかったように思われる。

広告を非表示にする