本の覚書

本と語学のはなし

米百俵/山本有三


 前半は戯曲『米百俵』。小林虎三郎佐久間象山の門下において、吉田松陰(寅次郎)とともに、「二虎」と称えられた学問の人である。河井継之助の親類であるが、その政策に断固反対を貫いたことは、司馬遼太郎の『峠』*1にも有名なエピソードとともに語られている。さて、戯曲は戊辰戦争後、焼け野原となり困窮を極める長岡藩に、支藩三根山藩から米百俵の見舞いが届く、それを藩士らには一粒たりとも配給せず、学校を建てる資金としようとしたのが小林虎三郎だという話である。

それは何かと申すと、日本人同士、鉄砲の打ち合いをしたことだ。やれ、薩摩の、長州の、長岡の、などと、つまらぬいがみ合いをして、民を塗炭の苦しみにおとし入れたことだ。こんなおろかなことはさせたくないと思って、おれは病中、どれだけ説いたかわからない。しかし、藩のほうでは、おれの意見を聞き入れなかった。(中略)あの時、さきの見えた人物がおりさえしたら、同胞はお互いに血を流さないでもすんだのだ。藩は微禄(びろく)しなかったのだ。町は焼かれはしなかったのだ。そして、武士も町民も、こんなに飢え苦しむことはなかったのだ。(中略)だから、人物さえ出てきたら、人物さえ養成しておいたら、どんなに衰えた国でも、必ずもり返せるに相違ないのだ。おれは堅く、そう信じておる。そういう信念のもとに、このたび学校を立てることに決心したのだ。(p75-76)


 米を寄越せと迫る藩士たちに、そう虎三郎は説得するのである。言い伝えでは、「みんなが食えないと言うから、おれは教育に力をそそぐのだ」というくらいの言葉しか残っていないようだから、セリフのほとんど全ては有三の創造である。だから、彼は更に「常在戦場」まで持ち出し、困窮に耐えよというメッセージを強く打ち出している。


 後半は『隠れたる先覚者 小林虎三郎』という講演原稿とそえがき。有三がことさらに虎三郎を発掘しようとした理由が明かされている。

 国民は今、山本連合艦隊司令長官の豪放なる作戦に、心から感謝と賞賛のことばをささげております。しかし、山本大将は決して、一日で、偉大なる人物になったのではありません。あの決断、あのすばらしい戦術、あの偉大さというものは、――もちろん、山本大将その人に備わっているものにはちがいありませんが、――その原因をたずねますと、さまざまな理由があげられると思うのであります。そして、その遠い原因の一つとして、七十五年の昔、「おれは人物を作るのだ。人物を作って、長岡を復興させるのだ。人物を作って、新しい日本を立ち上がらせるのだ。」と言った小林先生の言葉を、ここに引くことは不当でありましょうか。(p.131)


 山本五十六は養子となって長岡藩の家老の家系を継いだ人である。虎三郎の作った国漢学校の後身、坂の上小学校を卒業し、長岡中学で学ぶときには、虎三郎の弟が設立した財団法人長岡社の奨学金を受けていたと言う。継之助は長岡を焼け野原にした。因果関係があるのかないのか本当のところは知らないが、長岡に空襲を招き、新潟を原爆投下の候補地としたのは、五十六であると一般に信じられている。皮肉な話である。
 だが、真珠湾攻撃当時、有三は五十六の輩出こそ虎三郎最大の功績であるかのように興奮している。そして国民にも「常在戦場」を説くのである。

 小林虎三郎先生は、敗戦後の長岡の人に向かって、「みんなが食えないと言うから、学校を建てるのだ。人物を育成するのだ。」と言いましたが、私は、今、「日本は勝つのだから、大東亜の指導者になるのだから、人物をたくさん育てあげなければいけない。つぎの時代に備えなければいけない。」と大きな声で、叫ばずにはいられないのであります。国民の一部では、米がたりないの、もめんがないのなぞと、言っているようでありますが、私は、そういうものは、そんなにたりないとは思いません。そんなものは、少しぐらいたりなくとも、我慢ができないことはないとないと思います。しかし、人物のたりないのだけは、私には我慢ができないのであります。(p.136)


 不思議なことが二つある。一つは、これほど熱心な皇国の臣民の戯曲が、人間尊重の甚だしきによって発禁処分になったこと。有三にしてなお左翼と見做されたのである。一つは、昭和五十年、長岡市が『米百俵』を復刻し、無料頒布したこと。虎三郎の思想が有三の解釈によって広まることを、長岡市は是としたのである。


 虎三郎の文章や詩は、甥の小金井権三郎が『求志洞遺稿』にまとめている。今は入手困難のようだ。権三郎の弟、良精は鷗外の妹、喜美子と結婚した。孫に星新一がいる。

米百俵 (新潮文庫)

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