本の覚書

本と語学のはなし

ヰタ・セクスアリス/森鴎外


 ちくま文庫の鴎外全集はかなり前に買い*1、第一巻を半分くらい読んで*2、後は放置していた。その続きを始めたのである。だが読んだのは『魔睡』と『ヰタ・セクスアリス』だけ、『鶏』以下の三作品はやめた。
 理由は簡単で、近頃岩波書店から鴎外近代小説集が刊行され始めた。既に持っている鴎外歴史文学集と合わせれば、鴎外の小説や戯曲が全部詳しい注釈つきで読める。これを購入して、家でじっくりゆっくり鑑賞することに読書の方針を変更したのである。ちくま文庫の全集も場所を選ばず鴎外に触れることができるよう配慮はされているが、職場ではどうしたってその喜びが減じてしまう。


 『ヰタ・セクスアリス』というタイトルは、ラテン語で性的生活を意味する。他の鴎外の近代小説同様、自伝的要素の濃い作品である。しかし放縦な性の告白ではなくて、およそ自然主義文学の題材になりそうにない恬淡とした性を一つの資料として残したものであり、当時は発禁処分になったけれど、今の我々から見ればタイトルほどにショッキングな内容ではない。
 政府の役人のくせに夜中にせっせと禁書を生産しながら、それでもアポロン的の装いを凝らす姿は、生涯を貫いた二重生活の悲しみを感じさせるけれど、私にはちょっとユーモラスにも見える。鴎外は「普請中」の日本に対してきわどい反抗を試みることもあるが、根本には冷静に引いて眺めユーモアをもって遇する態度がある。それがなければ、私は今も鴎外を読もうとは思わないだろう。
 『ヰタ・セクスアリス』はお気に入りの作品の一つである。もちろん助平な好奇心のせいではない。この作品がポルノグラフィーなどでないことはさっき書いた。自己弁護が過ぎると思う時でも、たとえばこんな文章に行き当たる。

僕はどんな芸術作品でも、自己弁護でないものは無いように思う。それは人生が自己弁護であるからである。あらゆる生物の生活が自己弁護であるからである。木の葉に止まっている雨蛙は青くて、壁に止まっているのは土色をしている。草むらを出没する蜥蜴は背に緑の筋を持っている。沙漠の砂に住んでいるのは砂の色をしている。Mimicryは自己弁護である。文章の自己弁護であるのも、同じ道理である。(p.301)


 すると鴎外の性的活動の自己弁護はともかくとして、はたして鴎外の擬態としての自己弁護とは何だろうかとはぐらかされてしまう。「かのように」という言葉が頭をよぎるのである。
 だがもっと罪のないあたりでニタニタするのが好きなのだ。たとえば鴎外が遺言を託した無二の親友賀古鶴所との出会いの場面(作品中では古賀となっている)。

 僕は憤然とした。人と始て話をして、おしまいに面白い小僧だは、結末が余り振ってい過ぎる。僕は例の倒三角形の目で相手を睨んだ。古賀は平気でにやりにやり笑っている。僕は拍子抜けがして、この無邪気な大男を憎むことを得なかった。(p.267)


 「例の倒三角形の目」というのは、埴生という同級生が鴎外(作品中では金井)の目を評して「君の目は基線を上にした三角形だ」と言ったのを指す。ドイツでは案外もてたようだけど、若い頃は自分の容姿に大分コンプレックスを感じていたようで、この倒三角形の目なんかも、絵に描けばギャグ漫画にしかならないように思われる。