本の覚書

本と語学のはなし

カンガルー・ノート/安部公房


 これが安部公房最後の長編だそうである。死をテーマにしているらしいが、なにやら全て夢の中のような奇妙な話で、到底解釈など受け付けそうにない。けれど、普段はあまりに現実離れした設定を嫌う私が(川上弘美の『蛇を踏む』は途中で投げ出した*1)、かいわれ大根を脛に生やした男の悲劇には別段の違和感を感じることはなかった。
 ドナルド・キーンは解説の中で言う、「現代日本の小説家の中で一番自分の体験や自分の感情を隠したのは安部さんであった。例えば、どこかの町へ行って取材した場合でもどこの町であったかなるべく伏せることにしていた。又、自分の体験を何かの形で書いた時でも、どんなに感動したとしてもそれを伏せた。安部さんは決して冷い人間ではなかったが、多くの作家が自分の感情を誇張した形で小説に盛り込むことに反して、はにかみ屋だった安部さんは自分の深い感情の周囲に数多くの壁を建て、壁の中に隠されている自分を発見できる読者を待っていた」。たぶんそこなのだろうと思う。
 ラストは『箱男』とも相通じるようでもある。「大型冷蔵庫でも入りそうな、ダンボール箱」が登場する。『箱男』のAの場合には、「冷凍庫つき冷蔵庫」のダンボールが彼を魅了したのだったが。

 箱はただのダンボールではなかった。硬化プラスチックなみの粘りと堅さ。
 正面にのぞき穴があった。郵便受けほどの、きり穴。
 覗いてみた。ぼくのうしろ姿が見えた。そのぼくも、覗き穴から向こうをのぞいている。
 ひどく脅えているようだ。
 ぼくも負けずに脅えていた。
 恐かった。(p.211)


 父親が開業医、本人は東大医学部出身(国家試験は受験しなかったそうだが)ということもあって、病院や診療所が頻出するのも、密かに私の好むところかもしれない。

カンガルー・ノート (新潮文庫)

カンガルー・ノート (新潮文庫)



《Kの場合》
 Kのようだ。職場ですれ違い、礼儀正しくあいさつをされた。私の方はだいぶよれよれになったか知らないが、彼女はほとんど昔のままだった。幼稚園から中学までの約半分を同じクラスで過ごし、生徒会の活動でもいつもペアを組まされ仕事をした人である。
 彼女が今の私の職場に勤めているということは聞いたことがある。情報源は母しか考えられない。母の情報源は、彼女の母か、どこかで聞きつけた噂であろう。しかし、なにぶん昔の話であるから、今も勤めているかどうかは知らなかった。
 確信したのは日曜日のこと。日勤のために朝早く自転車を漕いでいると、車から少年が楽しそうに降りてくる。彼女の実家の前である。通り過ぎつつちらりと見たら、彼女が玄関へ通じる階段を上っていた。その姿は職場で見たのと変わらない。数年前、投票受付事務をしていた時に臨月の彼女を見かけたが、この子はあの時の子だろう。実家に預けて日勤に向かうところだと推測した。
 同じ建物の中にいても滅多に遭遇するものではない。ところがその日、彼女はやたらに私の前に現れた。今まではどうだか知らないが、そろそろ向こうでも気が付いたかもしれない。最後に話したのは高校一年の時で、私の高校の文化祭に来ていたのをつかまえ、まだバレーボールをしているのかと小馬鹿にしたとも取られかねない発言をしたのが心残りになっている。
 向こうは私の凋落した様子に気を使っているのかもしれないし、私は予想外に生真面目に一つの職場で働き続けている彼女に全く言語が通じない可能性を考えている。市役所に勤めていた頃、私は役人であることを恥じていた。人生を降りて就いた今の仕事には、誇りを抱かぬ代わりに、一切恥じることはない。彼女には理解できないことかも知れない。
 ずっと知らぬふりはできないが、何をどう話したものか。