本の覚書

本と語学のはなし

『原発はいらない』


小出裕章原発はいらない』(幻冬舎ルネッサンス新書
 タイトルの下、著者の名前の上に、誇らしげに肩書が書かれている。「京都大学原子炉実験所 助教」。新書のカバーに肩書を明示するのは珍しい。専門家の発信としての信憑性の担保、というのが出版社の狙いだろう。しかし、本人にはもう二つ狙いがありそうな気がする。一つには、東大とは違って、京大には原発を専攻しながら原発に反対するグループがあるのだという矜持。一つには、その京大においても、原発に反対し続けていては生涯助教(昔の助手であって、助教授ではない)に留まり続けるのだという現実である。
 興味深い発言を二つ書き抜いておく。先ずは、原発を廃止するとして代替エネルギーをどうするかという問題。著者は火力発電をフル稼働させれば、現在の消費電力をまかなえると考える。

 私は即刻、原発を廃絶することを求めています。そして、それは現時点で、水力発電所と火力発電所を必要に応じて稼働させれば、新しい発電施設など作らずとも可能なことです。「新エネルギーでなくてはダメだ」とこだわりすぎると、「それが実現するまでは原発を認める」ということにもなりかねません。原発の即刻廃絶のためには、火力発電をフル稼働させることに尽きます。さらに私自身が思うのは、「たとえ電力なんか足りなくなっても、原発はやめるべきだ」ということです。(p.207)


 原発はエネルギー生成の全工程を考えれば決してクリーンなエネルギーではないし、そもそも何十万年も保管しなくてはならない有害な使用済み核燃料を排出し続けるだけでもエコであるはずがない。
 もう一つは、プルトニウムの危険性。通常の原発ウラン235を燃料として発電するよう設計されている。しかし、このウラン235はウラン全体の0.7%しかない。残りの燃えないウラン238核分裂プルトニウム239に変えて、ウラン用の原発で燃やしてしまおうというのがプルサーマル計画。これは高速増殖炉もんじゅの稼働目途が立たないための代替案である。そもそもプルトニウムはウラン以上に危険であって、破局的事故の可能性を秘めているが、もう一つの懸念は核兵器への転用であるという。

 政府が高速増殖炉にこだわるのには理由があります。それは、将来的に核兵器を製造しようという下心があるからです。普通の原発が生み出すプルトニウムの場合、核分裂性のプルトニウム239は、プルトニウム全体の70パーセントしか含まれませんが、優秀な核兵器を作るためには90パーセント以上であることが望まれます。そして、高速増殖炉が稼働すれば、その割合が98パーセントという、超優秀な核兵器材料を生み出すことができるのです。
 この危惧は、私だけのものではありません。国際社会も同様です。日本はプルトニウムそのものを保有することを国際条約で禁じられています。そのため、蓄積された大量のプルトニウムをどんどん消費しなければならなくなり、追い詰められて行き着いたのが、「プルサーマル計画」なのです。(p.123-124)


 ちなみに、建設工事を再開する大間原発は世界初のフルMOX原発で、最初からプルトニウムを燃やすことを前提に設計されている。これを作る電源開発という会社は、これまで原発を作った実績を持っていないそうだ。


 忙しくて暇がない著者の代わりに、出版社の人が彼の発言を再構成し、文章にまとめ、それに著者が手を加えて出来たのが本書である。本のつくりとしては少しゆるい気がするし、やや情緒的な表現に流れもする。やさしくて読みやすいのはいいのだけど、私のようなずぶの素人にも体系的な知識を与えてくれるような構成であってほしかった。


 さて、ふたたび『竜馬がゆく』に戻る。
 今月から産経新聞に関厚夫の『紅と白』という小説の連載が始まった。高杉晋作の物語である。関厚夫という人も産経新聞の記者であるから、司馬遼太郎の伝統を受け継ぐ人なのだろう。松下村塾の門弟を主題にするあたりは、近頃の情勢に対する主張を含むものだろうか。それはともかく、この小説も毎日読むことにした。