本の覚書

本と語学のはなし

日本古典


 「日本の古本屋」というサイトから、「新潮日本古典集成」全82巻を注文した。送料を含めても一冊当たり450円弱だ。
 詳しいことは届いてから書くつもりだが、このシリーズの最大の特徴は、分かりにくい本文のわきに赤色で傍訳をつけている点だろう。『源氏物語』などは、小学館の「新編日本古典文学全集」の全訳と親切すぎる注釈をまだ必要とするかもしれないが、大概この傍訳で問題は解決するのではないだろうか。読むスピードもぐんと上がりそうだ。
 ラインナップに完全に満足しているわけではない。物語にしろ日記にしろ歴史書や軍記物にしろ、不足はある。しかし、古典学者になろうというのではないし、古典が英仏文学に優先されるべきでもない。先ずはこの集成に収められた基本書を読み通し、更に繰り返し読むことだ。


 これでもうあまり本を買う必要がなくなった。月に一遍くらい古本で歴史小説、ごくたまに洋書(および参照すべき翻訳)を仕入れるだけで事足りるのではないか。なんだか寂しくなった。ほとんど人生を降りたのだなという気がする。


 天が高くなった。自転車をこぎながら空を眺めると、宗教的な気分にひたされる。かつて本当に信じたことなどなかったはずのカトリックのそれである。
 私にはカトリックとの出会いが二度ある。一つは小学生の頃、聖母幼稚園の先生の教える英語教室にほんの少し通った時のこと。クリスマスに入った礼拝堂は、隣接する一般信者のための和風の教会とは違って、厳かな雰囲気に包まれていた。もう一つは大学生の頃、近くの教会に出掛けて洗礼まで受けた。聖母幼稚園で見た金色のキリスト像に導かれたのではあったが、信仰として本当に受け入れていたとは言い難い。当時は私の人生の中でも、一番仏教に影響を受けていた時期であった。*1
 私にとってカトリックとは、聖母幼稚園の金色のキリスト像をいただくあの礼拝堂のことなのかもしれない。