本の覚書

本と語学のはなし

長歌


 『万葉集』巻第二は、前半の相聞を終えた。『万葉集』を読む大きな楽しみの一つは、長歌の序詞の壮大な比喩的イメージにあると思う。例えば、柿本人麻呂の次の歌など、石見の海を詠みつつ、その寄せ来る玉藻のイメージが寄りそう(現地)妻へと転換していく。ある程度定型化はしているのかもしれないが、日本語は元来なかなか凄い詩的能力を持っているのかもしれない。

131 石見の海 角の浦廻(うらみ)を 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも いさなとり 海辺をさして にきたづの 荒磯(ありそ)の上に か青く生ふる 玉藻沖つ藻 朝はふる 風こそ寄せめ 夕はふる 波こそ来寄れ 波のむた か寄りかく寄る 玉藻なす 寄り寝し妹を 露霜の 置きてし来れば この道の 八十隈(やそくま)ごとに 万度(よろづたび) かへり見すれど いや遠に 里は離(さか)りぬ いや高に 山も越え来ぬ 夏草の 思ひしなへて 偲ふらむ 妹が門見む なびけこの山 〈柿本人麻呂


 ちなみに、冒頭から「玉藻なす」までが「寄り寝し」を起こす序である。


 古文を読む時間はないかもしれないと思いつつ、まだ捨て去る決心がつかない。で、次は道元の『正法眼蔵』を久しぶりに読んでみる。第六「行仏威儀」である。冒頭部分を書き抜くとこんな感じだ。

 諸仏かならず威儀を行足す、これ行仏なり。行仏それ報仏にあらず、化仏にあらず、自性身仏にあらず、他性身仏にあらず。始覚本覚にあらず、性覚無覚にあらず。如是等仏、たえて行仏に斉肩することうべからず。(行仏威儀)


 どこを読んでもだいたい同じことが書かれているので、飽きないように一巻終えたらまた『源氏物語』に戻る予定。


 K会から電話は来なかったが、書面で不採用通知が届いた。履歴書と職務経歴書も返却してくれてそれはそれでよいのだが、そのやり方は求人票に書いてあること、面接時に説明を受けたこととは、まったく違う。