本の覚書

本と語学のはなし

聖書と正法眼蔵と源氏物語


 国語の個別授業は先週の金曜日に振替えとなったため、今日は休み。可能ならば何を読みたいのだろうかと考えてみた。

 エリシャは死んで葬られた。その後、モアブの部隊が毎年この地に侵入してきた。人々がある人を葬ろうとしていたとき、その部隊を見たので、彼をエリシャの墓に投げ込んで立ち去った。その人はエリシャの骨に触れると生き返り、自分の足で立ちあがった。(王下13.20-21)


 聖書はいつも読んでいると嫌になってしまうが、時々無性に懐かしくなる。なぜか知らないが、学生時代、銭湯に通った暗い夜道の底に、私の宗教心のなにがしかが紛れていたように思う。

 いわゆる即心の話をききて、癡人おもはくは、衆生の慮知念覚の未発菩提心なるを、すなはち仏とすとおもへり。これはかつて正師にあはざるによりてなり。(即心是仏)


 道元も毎日だとすぐに飽きるけど、せっかく分かりかけてきたような気がするのだから、捨て去るわけにもいかない。学生時代、高熱にうなされながら、少し加減がよくなると中国語の文法書を読み、また気分が悪くなっては布団を被るということを繰り返した記憶がある。禅の語録をよりよく理解したいと思っていたのだ。道元を読むとき、太陽のもとに大地が厚さ三寸を増す。

 守、出で来て、灯籠かけ添へ灯あかくかかげなどして、御くだものばかりまゐれり。「とばり帳もいかにぞは。さる心もなくては、めざましきあるじならむ」とのたまへば、「何よけむともえうけたまはらず」と、かしこまりてさぶらふ。端つ方の御座に、仮なるやうにて大殿籠れば、人々も静まりぬ。(帚木14)

 紀伊守が出てきて、灯籠の数をふやし、大殿油の灯心を明るくかきあげたりして、お菓子ぐらいのものをさしあげる。「『とばり帳』の用意はどうなの。そちらの方が不十分では、興ざめな接待(もてなし)というものだろう」とおっしゃると、「『何よけむ』とも承ることができませんで」と、かしこまって控えている。縁側に近い御座所に、仮寝のようにしてお寝みになると、お供の人々も寝静まった。


 源氏の好色物語を続けるかどうかは別として、日本の古典にも未練を感じる。なお、「とばり帳」云々は、とばり帳を垂らした我が家に大君が来たら、肴にはあわび、さざえ、うに(いずれも女性を象徴する)を出すのがよかろうか、と歌った催馬楽を念頭に置いたやりとりである。この場では紀伊守は冗談とのみ受け取っているが、その後源氏は空蝉と契ることになるだろう。


 さて、どう取捨選択を行い、どんなふうにローテーションを組んでいくのがいいだろうか。知恵を振り絞って考えてみなくてはならない。

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