本の覚書

本と語学のはなし

『聖アントワヌの誘惑』


フローベール『聖アントワヌの誘惑』(渡辺一夫訳、岩波文庫
 隠者聖アントワヌを襲う様々な幻覚。東西のあらゆる神々や聖人や英雄や怪獣が現れては消える。悪魔の説く神はスピノザのそれのようだ。*1しかし、悪魔と契約を取り交わしたファウスト博士とは異なり、聖アントワヌがその幻覚の中で主体的な役割を果たすことはなく、苦しみながらもひたすら傍観者の位置を守り続ける。そして、最後には取ってつけたような歓喜の瞬間が訪れる。

 ああ! 嬉しい! 嬉しい! 己は生命の誕生を見たのだ! 運動の始原を見たのだ! 己の血は高鳴って、血管が破れそうだ。己は、飛びたい。泳ぎたい。吠えたい。唸りたい。叫びたい。己は、翼と甲羅がほしい。殻皮がほしい。煙を吐きたい。長い鼻がほしい。体をくねくねと捻りたい。あらゆるところへ体を分けてしまい、あらゆる物象のなかへ入りこんでしまいたい。香気とともに発散し、植物のように成長し、水のように流れ、音のように震動し、光のように輝き、あらゆる形体の上に蹲り、各原子の中に滲透し、物質の奥にまで下りたい。――物質になりたいのだ!(p.259)


 こうして再び祈り始めるのだが、どうも怪しい。これもまた最後の誘惑でないとどうして言えるだろうか。
 実際、あとがきによれば、教会関係者に配慮して真の結末を削除していたらしい。以下、あとがきから引用する。

 この資料によれば、最後の場面は更に次の様に展開されてゆく――アントワヌは町を見る。そこに十字架に打ちひしがれたキリストの姿を見出す。重い重い十字架である。人々は、もはやキリストを顧みぬばかりか、キリストを散々に呪い、はては暴力までふるう。キリストは遂に舗道の上にうち倒れ、次第に弱まりゆく心臓だけしか見えなくなってしまう。アントワヌは思わず膝まずき、次のように叫ぶ。「恐ろしいことだ! ああ神よ、私は何も見なかったのではないでしょうか? あとに何が残るのでしょうか?」(あとがきp.277)


 フローベールは『ボヴァリー夫人』で強く印象付けられた写実主義の作家というだけには留まらない。『聖アントワヌ』の成立史においては、抒情性の発露が過度になりすぎて失敗したこともあるという。大きな振幅を抱えた精神の持ち主であったという所から、『ボヴァリー夫人』などももう一度読み直すのがいいかもしれない。


 写真は以前プロフィール画像に使っていたサンテティエンヌ・デュモン教会。2005年7月12日の撮影である。*2


*1:この本が捧げられたアルフレッド・ル・ポワトヴァンは、死の床においても『エチカ』を離さなかったという。

*2:http://58808.diarynote.jp/200507310231490000/

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