本の覚書

本と語学のはなし

『フラニーとゾーイー』


サリンジャーフラニーとゾーイー』(野崎孝訳、新潮文庫
 グラース・サーガと呼ばれるグラース家の物語の内、「フラニー」と「ゾーイー」の2編を収めている。ここに出てくるのは7人兄弟の内の下の2人、フラニーとゾーイーであり、キリスト教や仏教を巡って特異な宗教観が展開されるのだけど、圧倒的な存在感を持っているのは既に自殺して7年たっている長兄シーモアである。
 歳のせいか、もともと私の傾向として受け入れにくい作家なのか、読むのが辛い。立て続けに取り組むのは無理なので、元気な時を見計らって『ナイン・ストーリーズ』と『大工よ、屋根の梁を高く上げよ・シーモア―序章―』に進みたい。なお、『1924年ハプワス16日』は文庫本では読めないようだ。

「ぼくにできる、できない、は問題じゃないよ。しかし、そうだな、ぼくにはできるな、実を言うと。今はこの問題に入りたくないんだが、しかし、少なくともぼくは、意識的にせよ無意識的にせよ、イエスをもっと『愛すべき』人間にしようとして、彼をアッシジの聖フランシスに変貌させようとしたことは一度もなかったな――キリスト教世界の98パーセントまでは、まさにそれをやろうとしてずっと頑張ってきたわけだけどさ。といっても、それはぼくの名誉でもなんでもない。ぼくがたまたま、アッシジの聖フランシスのようなタイプに惹かれる人間じゃないというだけのことさ。ところがきみは惹かれるんだ。そして、それが、ぼくの考えでは、きみがこんな神経衰弱にかかる理由のひとつなんだ。(後略)」(p.189-190)

「ぼくはね、俳優がどこで芝居しようと、かまわんのだ。夏の巡回劇団でもいいし、ラジオでもいいし、テレビでもいいし、栄養が満ち足りて、最高に陽に焼けて、流行の粋をこらした観客ぞろいのブロードウェイの劇場でもいいよ。しかし、きみにすごい秘密を一つあかしてやろう――きみ、ぼくの言うこと聴いてんのか? そこにはね、シーモアの『太っちょのオバサマ』でない人間は一人おらんのだ。その中にはタッパー教授も入るんだよ、きみ。それから何十何百っていう彼の兄弟分もそっくり。シーモアの『太っちょのオバサマ』でない人間は一人もどこにもおらんのだ。それがきみには分からんかね? この秘密がまだきみには分からんのか? それから――よく聴いてくれよ――この『太っちょのオバサマ』というのは本当は誰なのか、そいつがきみに分からんだろうか?……ああ、きみ、フラニーよ、それはキリストなんだ。キリストその人にほかならないんだよ、きみ」(p.229-230)


 「太っちょのオバサマ」の辺りは、たとえばマタイの第25章と関係があるのかもしれない。*1


フラニーとゾーイー (新潮文庫)

フラニーとゾーイー (新潮文庫)

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