本の覚書

本と語学のはなし

「フラニーとゾーイー」寒い

スズキ博士がどっかで言ってるよ――純粋意識の状態――サトリの境地――に入るということは、神が「光あれ」と言う前の、その神と合一することだって。(p.77「ゾーイー」)


 免許の更新に行ったとき、空き時間にサリンジャーの『フラニーとゾーイー』(新潮文庫)を読み始めたのだけど、*1その後はずっと放置していた。今日久々に手にしてみた。 
 サリンジャーの思想遍歴のことはよく知らないが、『ライ麦畑』の時から感じられた東洋思想への傾斜が、ここでは一層顕著になっている。引用した部分のスズキ博士というのは、鈴木大拙のことだろう。秋月龍萊の『一日一禅』上巻(講談社現代新書*2にこれと符合する記述があるので、書き抜いておく。

鈴木大拙先生(1870-1966)の晩年に、日本である世界的な学会があった。そこへ招かれて一場の講演をした先生は、「わたしはみんなに、『旧約聖書』に、神が“光あれ”といわれて夜と昼とが生じた、と書いてあるが、いったい誰がそれを見ていたのだ、と問うたら、みんなポカンとしたさまだった」と笑いながら筆者に語ったことがあった。先生は、、「アブラハムの生まれぬ前に私はおる・・・・とキリストがいったあのの立場に立って立言したのであった。天地の初めの創造もそして世の終わりの最後の審判も、禅者にとっては即今・此処のこの自己の当念を離れない、というのである。(上p.54-55)


 多分これは、欧米人を驚かせるにもってこいの、鈴木大拙得意の話だったのだろう。あちこちで同じことを言っていたに違いない。


 昨日から急に冷え込んで、寒いくらいである。本を読もう。

*1:http://d.hatena.ne.jp/k_sampo/20110831/p1

*2:現在は講談社学術文庫から合本で出ている。ただし、新書版の図版は全てカットされている。

広告を非表示にする