「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」すると、正しい人たちが王に答える。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。」そこで、王は答える。「はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタ25.34-40)
8月31日
久し振りに「マタイによる福音書」を読む。新共同訳は割と読み易い。
9月2日
アパートの近くにカトリックの教会がある。時折入信しようかと考えるが、クリスチャンにはなり切れぬと諦める。…
以前住んでいた寮の近くには、プロテスタント系の教会があった。何度か足を踏み入れようと思ったが、昼間は大抵寝ている習慣だった…
私の聖書の読み方は飽く迄シンボリスティックである。…
小学校3年生の時、私とMとは聖母幼稚園に送られ、神父様のもとで英語を勉強した。…今でも讃美歌の練習をした小さな礼拝堂は懐かしく思い出す。キリスト教の知識は何もなかったけれど、何かが私の心を支配した。
9月5日
「マタイによる福音書」を読み終え、「創世記」を始める。まるで恋でもしたかの様に胸が痛む。
夕べは寝つく迄、ずっと十字架にかけられた者の像を眼前に見続けた。
S教会に行き、朝のミサに参加した。未だ洗礼も受けぬ身でありながら、こともあろうに知らぬまま信者の如く聖体を口にした。…
9月6日
聖書を読んでイエスの衣ずれの音まで耳にしたのは今回が初めてだ。
9月10日
「創世記」を読み終える。…「マルコによる福音書」及び「詩篇」を始める。「マラキ書」及び「ハガイ書」を読む。
9月11日
S教会の司祭や信徒と共に遺跡巡りをする夢を見た。遺跡とは云っても、S川の土手の一帯でしかない。このところ、この類の夢が多い。
ホセ・ヨンパルト著「カトリックとプロテスタント」を読んだ。
9月12日
「マルコによる福音書」を終え「ゼカリヤ書」を始める。
「ゼカリヤ書」を終え、「出エジプト記」を始める。
9月14日
昨日は、ヴァイキングの隠された小さな礼拝堂を見つけ、マリア像の前で十字を切る夢を見た。今日はヘブライ語を学ぶ夢を見た。夢の中では毎日クリスチャンである。
9月15日
アメリカの聖書協会が訳した聖書を買ってきた。〈Genesis〉と〈Psalm〉を始める。
9月18日
昨日、映画「サムソンとデリラ」をみた。…
夢にカトリックの寺や教会を訪れた。私はでたらめなイタリア語を操っていた。
9月20日
映画「最後の誘惑」を見る。…
9月22日
映画「ジーザス・クライスト・スーパースター」を見た。…
9月25日
「カトリック入門」を一息に読む。…
9月26日
昨日、夜のミサに参加した。やはり私はカトリックになるのだろう。やがて洗礼を受けるのだろう。
9月27日
司祭さんに電話した。30日、司祭館に行く。
9月29日
泉富士男著「カトリックの冠婚葬祭」を読んだ。…
9月30日
司祭さんのところに行き1時間半程も話をした。…
ガエタノ・コンプリ著「人生に光を」を始める。…
四谷に行き、中央出版社で書籍を購入する。ドン・ボスコ社ではメダイやロザリオの類を眺める。鐘の音に惹かれて聖イグナチオ教会に入ると、丁度ミサを行っている最中だった。祝福を受ける。
10月2日
一昨日、フェデリコ・バルバロ神父訳の聖書を買って来た。早速「ヨハネによる福音書」を始める。実に便利な聖書だ。
10月4日
新興宗教の信者に棄教を迫られる夢を見た。彼も聖書を読む人だった。
10月5日
ガエタノ・コンプリ著「人生に光を」を終え、同じ著者の「こころに光を」を始める。…
10月7日
ガエタノ・コンプリ著「こころに光を」を読了した。この1ヶ月程でカトリック教会の主要な教えは大方理解した。…
10月8日
〈Genesis〉を終え、〈Exodus〉を始める。
10月9日
「ヨハネによる福音書」を終え、「使徒行録」を始める。
ふと昨日の夢を思い出す。Sにカトリックではないかと尋ねると、そうだという。丁度日曜日でもあり、そろそろ夕方のミサの時間であったから、家に帰る前に一緒に参加しようと誘った。…
10月10日
昨日は夢の中でカトリックを弁護した。相手は恐らくプロテスタントだった。…
10月12日
「使徒行録」を読了する。いわばこれは教会の書である。「ローマ人への手紙」を始める。
10月14日
一昨日、初めて聖書教室に出掛けた。一組の夫婦と既婚女性と共に学ぶ。ほとんど神父さんが一人で話し、別段自己紹介のようなことはしなかったので、未だ彼らの個性は分からない。
「私の兄弟と肉親の者のためならば、私自身はのろわれてキリストから捨てられた者となることさえ望む。」(ロマ9.3)この様な言葉の内に、キリスト者の面目がある。
「しかし迷いながら食べる者は罪とされる。なぜなら確信によって行わないからで、確信に基づかないことはすべて罪だからである。」(ロマ14.23)ここに所謂「幼子の心」が強い語調で説かれている。罪とは何か。迷いである。迷いとは何か。分別である。分別は善悪の木の実に由来する。
「ローマ人への手紙」を終え、「格言の書」を始める。
きりがないのでこの辺でやめるが、熱病に襲われたようなこの期間、実は禅の本もけっこう読んではいた。おそらく、私にとってはキリスト教を受け入れるには禅の力が必要だったのだ。
だが、禅だけでは不足しているように思われた。すべてはあの王のたとえ話から始まったのである。