本の覚書

本と語学のはなし

『ドゥイノの悲歌』


リルケ『ドゥイノの悲歌』(手塚富雄訳、岩波文庫
 10年の歳月をかけて書かれた10篇のエレジー。もちろん毎日コツコツ執筆したのではない。その多くは長い沈黙の期間であった。厳しい芸術的態度で書かれただけあって、難解極まる。幸いに詳細な注釈がついている。詩の分量を上回る充実ぶりだ。先ずリルケの言葉だけを読み、次に注釈に目を通しながら再読し、最後にもう一度注釈を排して読む。どの詩もせいぜい100行程度の長さだが、各々にたっぷり1時間はかける必要があった。これほどの注釈を必要とする詩を、私は好まない。それが第1の点であった。
 詩の内容、あるいは思想についてはどう言うべきだろう。頽落した生と性とから死を媒介にして逃れ、純粋を求める受苦の彼岸に、ここにこうしてあることの大いなる肯定に至るという、いかにもドイツ(語)的世界観ではないだろうか。学生の頃に出会っていたら1度は虜になっていた。しかしニーチェハイデガーも開く気の起こらぬ今、それと決して無関係ではないがもうドイツ語愛好者ではありえぬ今、極北の吹雪に耐え抜く詩人のところにどうして足を留めることができるだろうか。恐らくはイタリアに行くことにリルケ以上の必然性があったゲーテの方が、今でははるかに私に親しく感じられる。それが第2の点であった。

…しかし理解せよ、そう言うのは
物たち自身もけっして自分たちがそうであるとは
つきつめて思っていなかったそのように言うためなのだ。恋するものどうしが大地に力にうながされて
心に情熱のみなぎるとき、そのいぶきをあびて、物たちの一つ一つが歓喜にみちて躍動するのは
言葉を発するすべをもたないこの大地のひそかなたくらみなのではなかろうか。(第9, p.72)

夕映えを意味深遠なものに燃え立たせるのは。
恋人同士の歩む小道に、春の美しい花という花を
撒いてやるのは一体誰ですか。
…詩人のうちに示顕する人間の力ではないのか。(ゲーテファウスト』上, p.19)


 詩はやはり原文で読まなくてはならない。音やリズムが大切な要素であるからというだけではない。翻訳だとあまりに速く読みすぎる。一つひとつの言葉の上にとどまらずに、どんどんと滑って行く。原文ではないのだからそれだけの価値があるかどうかは分からないが、そのような意識がある自体、詩の核心に至る道を自ずから絶っていることになるだろう。当該言語を学んでおり、しかもその目的の一つが文学にあるのならば、原文で読まないのは怠慢である。それが第3の点であった。


 私にとってはリルケとの出会いが遅すぎたのである。


ドゥイノの悲歌 (岩波文庫)

ドゥイノの悲歌 (岩波文庫)

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