本の覚書

本と語学のはなし

同性愛文学としての『白鯨』


 『白鯨』において鯨は男根の象徴である、と仮定しても的外れではないだろう。白鯨のあだ名モービィ・ディック(実在のモチャ・ディックなるマッコウ鯨に由来する)にしてからが、それを意味し得るはずだ。


 航海の前、語り手のイシュメールは宿屋にて、ひょんなことから南海の島に生まれ全身に入れ墨を施したクイークェグなる異教徒と同じベッドに寝ることになる。

そのうちわたしは胸苦しい悪夢を見ながらまどろんだらしい。そして、ゆっくりと、まどろみから覚めていった――なかば夢見ながら――わたしは目をあけた。先ほどまで日がさしていた部屋は夜のとばりにつつまれていた。とたんに、戦慄が全身をつらぬいた。何も見えず、何も聞こえず、ただ超自然的な手がわたしの手のうえに置かれている。わたしの片腕は掛けぶとんのうえに出ていたが、名状しがたい、想像しがたい、物言わぬ姿が、まぼろしがベッドの横に寄りそうようにすわり、わたしの手のうえに手を置いているのである。〔中略〕いや、いまになっても、ときおりわたしはあの神秘に頭を悩まされる。(「掛けぶとん」上p.108-109)


 実際クイークェグの手は「花嫁を抱く流儀で」語り手の体に回されていたのである。以来彼らは喜んで同じベッドに寝るようになる。


 「手をにぎろう」という章では、凝固し始めた脳油をもみほぐす語り手が恍惚境に陥る。

 しぼって! しぼって! また、しぼって! 朝の時が流れた。脳油のかたまりをしぼりながら、わたしは、いまにも自分自身がそれにとけこんでいくのではないかと感じた。それをしぼりながら、ついに奇妙な狂気がわたしにしのびよるのをおぼえた。そして気がつくと、わたしは同僚の手をあのやさしい球体とまちがえて、しぼっているではないか。このなぐさみごとには、なんという豊穣感、いとおしさ、友愛、そしてエロスがあることか。わたしはなおも友がらの手をしぼりつづけながら、ふと感傷的な気分にとらわれて、じっと瞳をこらして相手の目を見上げた。〔中略〕さあ、みんなでしっかりと手をにぎりあおうではないか! いや、みんながみんなをもみしだき、ひとつになってしまおうではないか! そうだ、みんながみんなをもみしだき、友愛のミルクと愛液のなかにとけてしまおうではないか!(「手をにぎろう」下p.58)


 脳油とは頭蓋骨の外側、おでこの辺りから採れる上質の油であって、脳の油ではない。しかし、英語ではもっと見当はずれな spermaceti という名で呼ばれている。これについては語り手自身の説明を聞いてみよう。

それに、この脳油は、その英語の最初のシラブル〔sperm-〕が文字通りしめすように、グリーンランド鯨の精液であると考えられていた。〔中略〕時が流れ、脳油の正体もわかってきたにもかかわらず、薬種商人たちが "spermaceti" なる名称をつかいつづけたのは、その希少性に深長な意味をからませて商品価値をつりあげようとしたからにちがいない。そういうわけで、精液油(スパーマセティ)が本当に由来する鯨〔マッコウ鯨〕に精液鯨(スパーム・ホエール)なる呼称があたえられることになったにちがいない。(「鯨学」上p.345)


 つまり、語り手が恍惚となったのは、精液鯨の精液油の中でのエロティックな友愛においてであったのだ。

 鯨を海の世界から追放しようとはかった根拠について、リンネは、鯨が「温血二心房、肺、可動性の眼瞼、空洞の耳、乳首にて授乳する雌をば突き刺す男根」を有するがゆえに、最終的に「自然ノ正シキ法則ニヨリ正当」にかく断ずる、とのべている。わたしはこの見解を、かつて航海をともにしたことのあるナンターケットの友人のシメオン・メイシーとチャーリー・コフィンに開陳したことがあるが、ご両人ともリンネが提供した理由はまったくもって根拠薄弱であるという点では完全に一致した。チャーリーなどは不遜にもリンネ説はペテンであるとさえほのめかした。(「鯨学」上p.341-342)


 なぜか語り手は鯨が哺乳類であることを否定する。別の個所では鯨の交尾について正確に記述しているし、男根の使用法についてもわざわざ1章を割いているにもかかわらず、ここでは故意に嘘をついているのだ。おそらくここにも語り手の意図を読み取ることができるであろう。


 『白鯨』はホーソーンに捧げられている。

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