本の覚書

本と語学のはなし

『白鯨』


メルヴィル『白鯨』上・中・下(八木敏雄訳、岩波文庫
 学生の頃だったろうか、映画で見たことがある。CGや3Dが発達した今となっては、骨董的な価値を求めて見るよりほかない海洋冒険もの、といったところだろう。しかし、小説そのものはほとんど古びていない。まさにペリーが日本に開国を迫ろうとする頃に書かれたものであるにもかかわらずだ(アメリカ側の日米和親条約締結の狙いには、捕鯨船への薪水供与なども含まれていたという)。
 プロット自体は単純である。かつて自分の脚を奪った白鯨に異常な復讐心を燃やす捕鯨船の船長が、危険をかえりみずその白鯨を追跡し対決した末に、語り手を除く船員すべてを巻き込んで破滅していくという海洋冒険小説。映画の通りである。
 しかし、小説の方はいろんな点で興味深い。先ず、鯨に関することなら、生物学的、解剖学的なものから書誌学的なものから捕鯨にまつわるものまで、あらゆる知識が網羅されている。プロットとは直接関係ないのだけど、配置の仕方が絶妙で、読み終えた頃には当時の水準の鯨学にかなりの程度通暁していることになる。ところが、非常に有能で信頼に足る語り手のようでいて時に意図的に架空の情報をばらまくことがあるかと思えば、鯨学という特殊部門から飛躍して人間学宇宙論にまで敷衍するユマニスト的な傾向を見せたりする。なかなか一筋縄ではいかないのだ。
 語り手が信頼に足るかどうかということでいえば、彼は途中幾度も姿を消し、彼には知りえないはずの場面や登場人物の心中を神のごとき視点から堂々と語る。シェークスピア的素養の要求に従い、推測をまじえて書いているのだろうと推測するよりない。実際、船長はリア王か何かのように造形され、ピップには道化の役割が与えられる。推測というよりも創作かもしれないという懸念すらある。
 そしてまた、全編これアレゴリーといった様相を呈している。白鯨とは白人のことなのか。白人船長をリーダーにあらゆる人種を載せた捕鯨船が、それを殺そうとしながら破滅していくのはどういうことなのか。株式の始まりが貿易船への投資にあったように、捕鯨船もまた投資家からお金を集め後に配当を配るシステムになっていたが、何かこれが現代に示唆するところがあるのだろうか。いろんな解釈が成立しそうであるが、そんなものをかいくぐって白鯨と共に逃げて行きそうでもある。
 成立事情に起因すると思われる欠点も含めて、なかなか楽しめる作品だ。


 ちなみに、当時の西洋の捕鯨は油を採取するのが目的で、使用後の肉は捨てられていた(「スタッブの夜食」や「美食としての鯨肉」という章で例外的に鯨を食する話も出てくるが)。

 商船においては、船員用の油は女王様の母乳のようにとぼしい。暗がりで身支度をし、暗がりで食事をとり、暗がりで寝床にもぐりこむ――それが水夫の宿命だ。鯨捕りは、光の源泉を求めているだけであって、光のもなかに生きている。鯨捕りにとって、寝床はアラジンの魔法のランプのようなもので、いわばその光明のなかにもぐりこむのである。それゆえ、捕鯨船は漆黒の夜をゆくときにさえ、その黒々とした船体の内部にはあかあかとした光明をやどしているのである。(下p.76-77)

白鯨 上 (岩波文庫)

白鯨 上 (岩波文庫)

白鯨 中 (岩波文庫)

白鯨 中 (岩波文庫)

白鯨 下 (岩波文庫 赤 308-3)

白鯨 下 (岩波文庫 赤 308-3)