本の覚書

本と語学のはなし

『ハックルベリ・フィンの冒険』


マーク・トウェインハックルベリ・フィンの冒険』(大久保博訳、角川文庫)
 子どもの頃にアニメで見ていた記憶がよみがえる。筏で自由に旅をするハックに憧れたものだ。しかし、原作を読むとそんなに自由を謳歌している風には見えない。ハックの自由、あるいはイノセンスというのは物語の下地であって、そこに描かれる奴隷制への懐疑こそが主題であるからである。トウェインは最初に警告をしている。

 この物語に主題を見つけようとする者は、告訴されるであろう。教訓を見つけようとする者は、追放されるであろう。プロットを見つけようとする者は、射殺されるであろう。(p.4)


 この「プロット」という言葉は、物語の筋のことではなく、作者の陰謀のことではないかと訳者あとがき(一読の価値あり)に書いてある。陰謀とは何のことかといえば、黒人解放や精神的隷属状態からの解放といった革命的思想のことである。だから、単なる冒険物語以上のものを読みとろうとするならば、危険を覚悟しなさいよということなのだと。
 ヘミングウェイは31章まではいいが、その後(売られた逃亡奴隷のジムを脱出させようとするところ)はインチキだから読まなくていいと言ったそうだ。たしかに話が上手く出来過ぎているし、トム・ソーヤーが出てきてからは一気につまらなくなる。しかし、物語としての成否はともかくとして、それもトウェインの意図であって、収まりのつかなくなった話を無理に大団円に持って行くための単なる方便ではないと思う。偶然ハックと再会したトムは、ジムの逃亡に手を貸そうとするどころか、あれやこれやの冒険譚どおりに正式な手続きを踏まなくてはならないと言って、自分の世界に夢中になる。だが、トムは最初からジムが主人の遺言により既に自由を得ていることを知っていたのである。のちにそれを聞いたハックは思う。

だから、なんのことはない、トム・ソーヤーは、ワザワザあんな苦労をし、あんな大騒ぎをして、もともと自由な黒ん坊をまた自由にしようとしていたんだ! そして、おいらには、それまではまったく分からなかったが、この瞬間に、この話しを聞いたとたんに、ハッキリとした。一体どうしてトムが黒ん坊を自由にしてやる手助けなんかすることができたか、ってぇ理由がだ。あんなシツケを受けて育ってきたくせにな。(p.625)


 トム・ソーヤーの属する旧来の価値観に対する痛烈な批判が込められていたのである。