本の覚書

本と語学のはなし

山菜採り


 山菜採りに行った。といっても、いつもの通り私は両親を車に乗せて目的地に運ぶだけで、現地ではずっと本を読んでいる。一昨年はカーヴァーの傑作短編集*1、昨年は数学の参考書だったが*2、今年はフォークナーの『熊』。
 小さな社の境内に据えられたベンチや石垣の上に腰かけて、風を感じながら読む。疲れて立ち上がりながら読んでみたら、これも本を読む姿勢として捨てがたいことを発見する。優雅なようだが、小さな虫が顔の周りを五月蠅く飛び回ったり、時折の強風に季節外れの猛烈な桜吹雪に見舞われたりして、平地の公園のようなわけにはいかない。ミシシッピの大森林の中の狩りの話だから、そのくらいでちょうどいいのかもしれないけど、最後には少々の暑さと窮屈さを我慢しつつ、車の座席に収まって読んでいた。


 最近ブログを書くのが面倒くさくて仕方ない。ツイッターに手を出したのもそのせいだろう。メインはツイッターにしておいて、引用をするときや、本を読み終えてまとまった感想を書くときだけブログを利用し、記事のアドレスをツイッターに貼り付け誘導するという手もある。しかし、2箇所に書き込みをするというのが面倒くさいし、ツイッターでは過去の発言を振り返るのが大変そうだし、なによりツイッターの根本はコミュニケーション・ツールということにあるのだろうけどそういう使い方には今一つ自信がない。
 だとすると、ブログを書く頻度を減らすというのが唯一の解決法だろう。しばらくはブログのタイトル通り、本を読み終えたとき、本を購入したときの備忘録としてのみ使い、また気力が復活してくるのを待つことにしよう。今フォークナーを岩波文庫で読んでいるように、日本語でも文学を読み始めている。先月のように極端に読了本が少なくなることはないはずだ。本を読む量が増えれば、恐らく倦怠感も払拭されるだろう。