本の覚書

本と語学のはなし

Aeneid


 ツイッターとの重複を恐れないなどと言ってみたところで、一度かりそめにも書いたことはそう直ぐに書き直す気にはなれない。私の場合ブログとツイッターの境目はあいまいだから、ツイッターを続ける限りブログは先細りにならざるを得ないだろう。積極的にコミュニケーションをする準備がないのであれば、ツイッターの方は読むのを専門にして、書きこみをしないのが一番よさそうに思える。
 ツイッターによい効果がなかったわけではない。いろいろな人たちに刺激を受けて、中断していた諸々を再開しようと気分が高揚したのだ。ギリシア語でプラトンの『国家』、ラテン語ウェルギリウスの『アエネーイス』、ドイツ語でヘッセの『青春は美わし』、そして道元とバルバロ訳『新約聖書』をまた読み始めた。ノルマなどは一切もうけず、読みたい時に読みたいだけ読む。道具として使いこなすなどという野心は持たない。しかし、これらによってしか潤いを保つことのできない私の内なる部分が存在しているようなのだ。
 さて、ツイッターをどうするか。ある日突然これまでのツイートを削除する、というのは大いにあり得ることだろう。


 久し振りに読んだウェルギリウスアエネーイス』の原文と岩波文庫泉井久之助訳。

nunc eadem labente dia convivia quaerit,
Iliacosque iterum demens audire labores
exposcit pendetque iterum narrantis ab ore. (4.77-79)

……いま日がようやく傾けば、
きのうと同じ饗宴を、開いて再びイーリオンの、
人がなめ来た厄難を、狂うばかりに今一度、
聞かせてほしいと語り手の、口に再び垂れ下がる。 (p.211-2)


 和訳で分かりにくいのは「口に垂れ下がる」という表現だろう。Loeb の英訳でも「and again hangs on the speaker’s lips」となっているが、英語の場合(ラテン語に由来した表現なのだろうけど)、これできちんと熟語として意味をなしている。つまり、「耳を傾ける」ということである。日本語で「口に垂れ下がる」と言っても、そんなことは含意しない。訳として機能しているかどうか疑問はある。しかし、恐らくはラテン語の表現の面白さを損ないたくなかったがための直訳だろうと思う。
 私はなんだか、親指姫のように小さくなったディードーが、アエネーアースの歯に必死に手をかけ、落ちまいとしている姿を想像してしまって、嫌いにはなれない。

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