本の覚書

本と語学のはなし

『道元禅師の人間像』


●水野弥穂子『道元禅師の人間像』(岩波セミナーブックス)
 古い道元の伝記である『永平寺三大尊行状記』と『伝光録』と『建撕記(けんぜいき)』を三つ並べてふんだんに引用しながら、道元の生涯をたどる。いくつか気になるところをまとめてみる。


(1) 父親は久我通具。一般向けの本では久我通親とされることも多いが、研究者の間ではその子通具とするのが主流。道元が通具を「育父」と表現していることに関しては、仏子としての自覚によるものだろうという。母親は藤原基房の娘。ただし、一般に言われる伊子(木曽義仲の元妻とされる)ではなく、史書に名を残さない他の娘であろう。


(2) 宋に留学して直ぐ、日本の僧が末席に置かれることについて皇帝に三度上奏し、ついに皇帝の裁可を得て、受戒からの年次に従い平等に扱われるようになった、と伝記に言う。水野は無下にこれを否定してはならないと主張する。


(3) 在宋中の身心脱落、いわゆる悟りについては、あったという人もなかったという人もいるが、「悟道の機縁ということを、何かの拍子に、あたり一面が明るくなって、凡夫が仏に変身するというような考え方でとらえてはならない」(103頁)、「しかし、ある時、やはり悟っていたのだと、師の言葉が身にしみることがあるのである」(104頁)。


(4) 如浄の委嘱の言葉は「祖道を弘通すべし」というだけで、国王大臣に近付かず深山幽谷で一箇半箇を接得せよというような、『建撕記』にのみ書かれていることはなかった。こういうことは、「道元禅師が、永平寺に住持するのが本来の姿であるという立場から書かれていることに注目しておきたい」(107頁)。


(5) 鎌倉下向は、北条時頼道元教団の外護者である波多野義重を通じて要請したものだろうが、波多野義重は御家人である以上断ることはできない。「その立場を察して、道元禅師としては、ただ、波多野氏の立場を悪くしない為にだけ、鎌倉に行ったのである」(162頁)。もとより道元は王勅による叢林の建立を理想とした人であって、鎌倉武士を相手にする気は全くない(このあたりは、著者の朝廷好きの武士嫌いという個人的な感情も交じっているような気がしないでもない)。


(6) 鏡島元隆が否定した「名越白衣舎示誡」にも道元の意図があることを認めている。また道元自身が断った時頼からの寄進を、玄明という僧が勝手に受けて来た。その心が汚いとして、玄明を追放し、彼が坐禅をしていた僧堂の床を切り取り、その下の土を七尺掘って捨てさせたと『建撕記』は伝えている。この話もある程度までは事実と考えている。総じて水野は書かれたことをあまり否定はしないようだ。


(7) 『建撕記』には、道元永平寺に戻った後、今後五百年間永平寺を離れないと誓約したと伝える。その記録は見出されないとしながらも、法語を引用してこれがそれに当たるものかとしている。しかし、その法語も『永平広録』には載っていない。鏡島元隆はこれを作り話として退ける。水野は例によって否定しない。「鎌倉の命に背くことは大檀那波多野氏の立場を危うくすることを考えなければならない。しかし、いかに波多野氏の面目にかかわるとはいえ、これ以上は絶対に北条氏の要請に従うことはできないのだ。こういうことをはっきりさせておきたくて、この言葉があったと思われる。そしてその上堂は『広録』から外されたのである」(178頁)。個人的な疑問。『建撕記』執筆時点で『広録』に収録されていたものが後に外されたとして、いかなる校本にもその痕跡を残さずに済ませることができるものだろうか。あるいは、初めから『広録』から外されたものが『建撕記』執筆時点まで伝わり、その後散逸したものか。しかし、いずれにしろ、私には『広録』から外された理由が水野によって説明されたとは思われない。


(8) 水野は十二巻本を重視する立場の人だと思うが、この本ではあっけないくらいほとんど触れられていない。


 鎌倉行きの問題と十二巻本の問題は重要だが、私自身は伝記の問題には深入りしなくてもいいと思っている。私はやはり道元が語ったことを先にするべきである。

【参照】