本の覚書

本と語学のはなし

A Christmas Carol


 ときどきクリスチャンを装ったようなことを書いているが、信心があるわけではない。私の人生の中で一等宗教的な傾向が強かった頃でも、東洋的な神秘主義を抜け出たことはないし、カトリックの洗礼を受けた時ですら根本的な回心をしたというより、神秘主義からの解釈を試みていたというだけではなかったか。


 クリスマスの思い出は数えるほどしかない。
 小学生の頃、カトリック教会のイタリア人神父が無料の英会話教室をやっていて、短期間だけ通ったことがある。その年のクリスマスは、礼拝堂で賛美歌を歌い、キリスト誕生の場面を英語で演じ(私はお祝いに駆けつける農夫の役)、プレゼント交換をした。教会が遠かったのと、部活動が本格的に始まったのと、英語に興味がなかったのとで、すぐにやめてしまった。
 中学の時、学校から戻るとちょうどテレビで『クリスマス・キャロル』の映画が始まるところであった。それがこの作品との初めての出会いである。
 公務員をしていた頃、一度だけ幼稚園のクリスマス会(公立なのでクリスマスという名称は使っていなかったと思う)を手伝いに行った。園長は「イエスもマリアも童貞だなんて、あの親子は頭がおかしいんだね」と言っていた。園児たちの演じる劇は、私が子供の頃とは様変わりをしていて、正義が一方的に乱暴に勝利を収めるようなことはなかった。
 税金の滞納整理をしていた時は、クリスマスの夜にも徴収に行っていたことがある。


 今年もいつもと何ら変わらない聖夜である。違うとすればディケンズの『クリスマス・キャロル』を開いていることくらいだが、感傷に浸るでもなく、淡々と語学的な注意をしながら読んでいるだけである。
 引用部分がクリスマスに似つかわしくないかもしれないが、たまたま今日読んだのだから仕方がない。未来のクリスマスの精霊に連れられて、スクルージが自分の死体と対面する場面である。原文はわざと古い詩的な文体になっている。

 Oh cold, cold, rigid, dreadful Death, set up thine altar here, and dress it with such terrors as thou hast at thy command : for this is thy dominion ! But of the loved, revered, and honoured head, thou canst not turn one hair to thy dread purposes, or make one feature odious.

 おお、冷たい冷たい硬い、恐ろしい死よ。お前の祭壇をここに築け。そしてお前の自由にあやつる恐怖で飾れ。これはお前の領土なのだから! だが、愛され尊敬され名誉をさずけられた頭に対しては、お前の恐ろしい目的のために髪の毛一本でさえさわることはならないし、顔形のどの一つとして醜くはさせないぞ。(村岡訳122-3頁)

 ああ、冷厳にして非情なる死よ、このところに汝が祭壇をしつらえ、意のままなる恐怖のありたけをもて飾れかし。こは汝が領域なればなり。さりながら、ものを脅さんそのために、まった毀損の意図により、愛され、敬われ、讃えられたる頭に限り、髪一筋たりとも掻き乱すことなかれ。(池訳139-40頁)


 池訳の「まった毀損の意図により」というのが、日本語としてよく分からない。「まった」は「また」の強めとしても使うらしいが、そうだとしても分かりにくい。ひょっとして「まったきその意図により」を誤入力、誤変換したものだろうか。
 ところで、これは原文のどの部分を訳したものだろうか。一つひとつ対応させていくと、どうやら「or make one feature odious」らしい。村岡訳では「thou canst not」に続く部分と見て、「顔形のどの一つとして醜くはさせないぞ」としているところだ。池訳の解釈では、「to thy dread purposes」と同じ資格として考えているということなのだろうか。文法的に可能かどうかよく分からない。可能として、「まった毀損の意図により」であれ「まったきその意図により」であれ、そのような訳になるのかどうかもよく分からない。
 もう一つの可能性は、「まった毀損の意図により」は「to thy dread purposes」を強調するために、筆の赴くまま訳者が作り出したフレーズであり、更に「or make one feature odious」は不要であるから切り捨てたというもの。しかし、これはありそうもないことだ。