本の覚書

本と語学のはなし

A Christmas Carol 素直にの巻


 今日の『クリスマス・カロル』は現在のクリスマスの精霊(過去、現在、未来と三人の精霊が登場する内、二番目の現在の精霊。物語進行時現在のクリスマスをスクルージに見せる)のセリフ。おそらく聖職者に対する風刺であろう。
 不注意な読み方をしていたせいで、かけなくていい時間を時間をかけてしまった。

 “There are some upon this earth of yours,”returned the Spirit,“who lay claim to know us, and who do their deeds of passion, pride, ill-will, hatred, envy, bigotry, and selfishness in our name, who are as strange to us and all our kith and kin, as if they had never lived. Remember that, and charge their doings on themselves, not us.”

 「お前たちのこの世の中には、私らを知っていると称して、私らの名をかたって自分の情欲、傲慢、悪意、憎しみ、ねたみ、頑迷、利己主義の行為をやっている者たちがあるのだ。その者たちは私や我々の一族には見も知らぬ連中なのだよ。このことはよくおぼえていて、その者たちのしたことについては、その者たちを責めるようにしてもらいたい。我々ではなくてね」(村岡訳,78頁)

 「この世には……」精霊はむっとして言い返した。「俺たちを知っているふりをして、凝り固まった信念で無理を通そうとするやつらがいる。気位ばかり高くて、根性が悪い。憎しみ、やっかみ、意地、依怙地。一皮剥けば、ただの身勝手。それを、もともと見も知らず、縁もゆかりもない俺たちの名を騙ってだ。このことを、よく覚えておけ。文句があるなら、そいつらに言え。俺たちを恨むな」(池訳,92頁)


 躓いたのは「as if they had never lived」の部分。どちらの訳でも、これが抜けているように見えた。訳しにくいのか、意味の重複を避けるためか、どこかに溶け込ませてあるのか、見当がつかない。というのも、これは「as if + 仮定法」で「あたかも〜のように」という構文だと思い込んでいたからである。


 一つ思い浮かんだのは、『アエネーイス』でディードーが死ぬ場面の有名なセリフ。

 vixi et, quem dederat cursum Fortuna, peregi,
 et nunc magna mei sub terras ibit imago. (4.653-4)

 I have lived, I have finished the course that Fortune gave ; and now in majesty my shade shall pass beneath the earth.


 泉井は「vixi」という完了形の動詞に「わたしはすでに生き終えた」という訳を当て、注釈を付けて言う。

 ラテン語などに特有の表現。「生きることを果たした」意味。(即ち死んでいる、または、死なんとしている。)(泉井訳,上264頁)


 ここからの類推で、「as if they had never lived」は「あたかも不死(の種族の眷属)であるかのように」という意味になりはしないかと考えてみた。しかし、せいぜい「あたかも死んだことがないかのように」という意味にしかならないだろう。「不死」を引き出すのは無理がある。生きている人間が死んだことがないのは当たり前の話である。


 もう一つ注目したのは、「live」に「人生を十分に楽しむ」という意味がある点。この用法は通例完了形の否定文で使われる。『ランダムハウス英和大辞典』には次のような例文が載っている。

 You’ve not lived until you’ve seen Rome.
 ローマを見るまでは楽しい人生を送ったとは言えない。


 そうすると、「まるで〜がなくては生きる意味がないと言わんばかりに」というような意味になるのではないかと思われてきた。で、「〜」の部分に前に列挙された「情欲、傲慢、悪意、憎しみ、ねたみ、頑迷、利己主義の行為」なんかを仮に入れてみる。
 しかし、慣習的な用法でない限り、このように条件を補って考えなくてはいけないというのは大きな弱みである。


 と、ここまで考え覚書にしておこうと思い原文を入力していたら、単純な事実に気がついた。「strange」の前に「as」がある。ということは、単独の「as if 〜」の構文ではなかったのだ。「as 〜 as 〜」の構文で、比較される内容が「if」で導かれる仮定法だったと言うだけの話である。つまり「全然存在なんかしていなかったのに等しいくらい」縁もゆかりもないということなのである。
 改めて二つの訳を見てみると、村岡訳はあっさりしすぎていて、ほぼ訳出していないと言ってもよい。池訳は単なる「strange」の訳にしてはこってりしすぎているとは思ったが、この人はもともと原文の跡をとどめないほど脚色するのが好きなので、原文を訳し込んだのか解釈を入れ込んだのか判断しかねるところがある。しかし、ここはまっとうな訳だったのである。


 手の込んだ解釈というのは大概間違っている。真実は案外単純であることが多いものである。



 それから、直接本文とは関係ないけど、内田樹水村美苗日本語が亡びるとき』の感想を書いている。
 http://blog.tatsuru.com/2008/12/17_1610.php

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