本の覚書

本と語学のはなし

The Moon and Sixpence


 『月と六ペンス』の行方訳。

 It was a night so beautiful that that your soul seemed hardly able to bear the prison of the body. You felt that it was ready to be wafted away on the immaterial air, and death bore all the aspect of a beloved friend.

 あまり美しい夜なので、魂は肉体の牢獄に閉じ込められているのにもはや耐えられなくなり、空中に飛び出して行きたいと感じ、死をとても身近なものに感じるのです(341頁)


 特に最後の部分がどう訳されているか気になった。字面通りに訳せば、「死は愛する友が備えるあらゆる相を帯びていた」とか、「死はあらゆる点において愛する友のようであった」となるだろうが、さすがにそんな稚拙な手は使わない。

 And do you never regret Europe? Dou you not yearn sometimes for the light of the streets in Paris or London, the companionship of your friends and equals, que sais-je? for theatres and newspapers, and the rumble of omnibuses on the cobbled pavements?

 ヨーロッパが恋しくなることはないのかい? パリやロンドンの街灯とか、友人や仲間との交友とかはどうだいク・セ・ジュ? 劇場、新聞、小石の舗道を走る乗合馬車の快い響きが懐かしくなることもあるだろう?(342頁)


 「どうだい」のところに「ク・セ・ジュ」というルビが振ってある。この「ク・セ・ジュ」は、モンテーニュ標語の深遠な意味とは全く無関係で、ものごとを列挙した後に付け加えて「その他いろいろ、等々」という意味になる。この場合であれば、「友人とか仲間とか、そういう連中との付き合い」というのがたぶん正確な意味であり*1、「どうだい」としてしまうのは本当はちょっとおかしいような気がする。この文章は「ク・セ・ジュ」で切れるのではなく、次の「for」は再び前の「yearn」と繋がっているのだから、無理にこんな訳にしなくてもよかったのではないだろうか。


 明日は日曜日。午後から『月と六ペンス』に集中的に取り組むつもりであるが、翻訳にして文庫本40ページ分残っている。一気に読了となるだろうか。

*1:個人的な感覚ではあるが、「equals」はタヒチの現地人に対して白人の優位を示唆している言葉であるという気がする。その辺を少しあいまいにオブラートに包むために出てきたのが、「ク・セ・ジュ」だったのではないだろうか。なお、この部分は現地人と同棲する英国人画家ストリックランドに対してフランス人の船長が語りかける場面である。