本の覚書

本と語学のはなし

日常


 数日振りに図書館に行く。家に閉じこもっていると、昼夜は逆転するし、腰が痛くなる。歩いてみたらいっぺんに健康を取り戻した気分だ。
 だが、今日の図書館常連は最悪のメンツだ。テーブルの反対の端には、大判の焼き物の本を放り投げるように置き、文字と見れば音読せずに済まさない老人が陣取る。田舎では珍しくないとは言え、気にする様子もなく人の面前で放屁までする。いつもTOEICの勉強をしている中年女性は逃げるように帰って行った。私の向かいは、社会保険労務士の資格勉強をする中年男性。密かに大便しているのではないかと思うような切ない吐息を絶やさない。間欠泉のように定期的に地団太を踏む。今日は老人に苛々していたのか、小刻みに貧乏ゆすりを続けていたようだ。そんなに勉強が辛いのなら、晴れて資格を取ったとしても、仕事はさぞかしつまらないのではないだろうか。
 まあ、今日はリハビリのようなものなので、暫く彼らを観察した後、椅子だけしかない新聞コーナーと読書コーナーを渡り歩き、「ニューズウィーク」を読むのに支障がないか試してみる。
 「ディプロマティク」は10月号も11月号も届かない。図書館で「ディプロマティク」に当てている時間の分だけ早く帰宅し、『ベラミ』を読むことにした(ということは、午前中の原典講読は毎日『月と六ペンス』に当てることができるということだから、多分今月中に読了する)。フランス語はこのまま文学だけになって行くのだろうか。
 読書は今、村上春樹訳の『グレート・ギャツビー』。翻訳教室では絶対に評価されないタイプの翻訳である。村上訳が私の体に合わないのは、もちろんそんな事とは一切関係ない。