本の覚書

本と語学のはなし

年賀状


 ここ数日は通信講座の課題にかかりきりだった。初級演習編の最終回とビジネス編の初回の二つ。
 前者は本来先月が提出期限だったが、三か月間は無料で延長できるので、仮の訳文を作った上で敢えて放置し、しばらく時間をおいて見直してみたのだ。びっくりするくらいひどい訳文だった。相当手直しをした。
 後者の方も初稿は十日位前には出来上がっているが、改めて見直すと、訳は雑だし、勘違いしている部分はあるし、調査不足である。赤を入れてマシにはなったが、完全な満足には至らななかった。
 いっぺんに二つの訳文を推敲したら、昼夜は逆転し、風邪をひき、疲労困憊した。しかし、そこまでするようになったのは、意識の持ち方が急激に変化したせいだろう。


 今朝、郵便局に課題を持ち込んだ。
 ついでに、気が早いけれど年賀状を購入する。帰ってきてよく見ると、十牛図っぽいと思って選んだ図柄は地方版の「牛に引かれて善光寺参り」であった。ここは信州ではないけど、まあいいか。
 年賀状は五枚しか出さない。高校の同級生一人、大学の同級生二人、学生時代アルバイトをしていた書店の元店員一人、病院勤務時代の同僚一人。役所の上司や同僚には、自分からは出さず、来た分だけ返事を書いていた。うっかり住所録から削るのを忘れていたと言うのでない限り、来年以降役所関係の人から届くことはないだろう。


 ノートに手書きのメモを取るようになった。ブログの素材になることもあるだろうが、全く別の存在意義を持つことになりそうな気がする。
 「二十歳の頃で私の精神年齢は完全にストップしている。知識は増えたし、社会のしくみも理解するようにはなったが、知恵と呼ばれるようなものや、深く掘り下げた専門的見識とは無縁のままである」とか、「あと三十年しか残されていない」といった感じだ。
 下手になる一方の字が少しは格好を取り戻してくれるだろうという副次的な作用も期待している。