本の覚書

本と語学のはなし

帰ってきた酔っ払い


☆『ボキャビル』『キーワード』「EP」「ヴェリタス」「民数」
☆「ニューズウィーク」「ル・モンド」『異邦人』
☆『カーヴァー』『英文解釈教室』『世界史1』
☆「On The Media」「France2」


 いつの間にか、図書館にBGMが流れるようになったらしい。クラシックだからいいってものではない。「ニューズウィーク」が捗らないせいか、よけいに気になる。長く居座らせないための陰謀ではないかと勘ぐってしまう。
 なぜ「ニューズウィーク」が捗らなかったのだろう。1日空いて勘が取り戻せないのか(来週から休日も休むまい)、若干難しいのか(アメリカに関する記事は読みにくいという気がする)。しかし、今日一番躓いたのは、ごく基本的な事柄である。


 In the next breath, these same veterans of the Clinton wars have the nerve to call Obama the elitist for a few ill-chosen words, as if their entire rationale for disqualifying him weren’t patronizing toward average Americans at its core.


 「weren’t」と「its」が分からなかったのである。確かに分かりにくい文章ではあるけれど、この2つで迷ってはいけない。


 「ル・モンド」の方は、サン・パピエの取締りがもたらした死についての記事で、こちらはスムーズに読み進める。「ル・モンド」だから常に極悪な文章というわけでもない。


 帰り、土手で写真を撮っていたら、酔っ払いに「元気?」と声を掛けられる。
 学生時代、雨に濡れながら歩いていると、酔っ払いが傘を差し出してくれた。学部を訊いて来るので、文学部だと答えると、「頭が悪いから文学部に入ったんだ?」と全ての鬱憤をそこに込めたかのような口調で言われた。頭が悪いには違いないけれど、偏差値のために泣く泣く文学部を選択したわけではない。当時の私は、口から発せられた言葉というものが人に通じる可能性にほとんど懐疑的であって、この時もまるで文法の違う世界の住人を前にしている気がしたものだ。
 酔っ払いを前にすると、私は今でも語るべき言語を持つことができない。失語症のようになる。青年時代に社会全体に抱いていた感覚を、今でも酔っ払いの内に感じ取ってしまう。逃げるように立ち去った。


 文学の原典は『異邦人』のみ。その代わり、時間をかけて量を読む。
 1日1作品に限定して、英仏の原典を交互に読んでいこうと考えている。