本の覚書

本と語学のはなし

蒔く


 ウェルギリウスプラトンモンテーニュを読む。
 モンテーニュを続けるか否か、未だ迷っている。今後フランス文学に力を入れるつもりならば残すべきなのだが。


 『エセー』第1巻第3章より。


L’ordonnance que Cyrus faict à ses enfans, que ny eux ny autre ne voie et touche son corps apres que l’ame en sera separée, je l’attribue à quelque sienne devotion. Car et son historien et luy entre leurs grandes qualitez ont semé par tout le cours de leur vie un singulier soin et reverence à la religion.


キュロス〔ペルシアの大王〕が子供たちに命じて、魂が肉体から離れた後は、彼らも、ほかの誰も、自分の肉体を見たり、触れたりしてはならぬとしたことを、私は彼の何かの信仰心のせいだと考える。というのは、彼の伝記作者〔クセノフォン〕も彼自身も、もろもろの偉大な特質の間に、その生涯のいたるところに宗教に対する異常な熱意と敬虔の念をのぞかせているからである。


 「のぞかせている」という苦心の訳は、「semer」にあてたもの。本来は「種を蒔く」という意味の動詞である。スクリーチは「sowed broadcast」としている。これでいいんだろうけど、さて、日本語ではどうしたものか。


 しかし、今日は最適の訳語を探そうというのではない。
 辞書を眺めていたら、「semer」に「(追手・尾行者などを)まく」という意味があることを発見したのだ。この意味での日本語の「まく」は、イントネーションも違うことだし、「種を蒔く」の「蒔く」とは別語源の言葉と思っていたが、もしやフランス語から入ってきたのだろうか。
 そう思って『新潮国語辞典』にあたる。やはり漢字では「蒔く」と書く。だが、例文に驚いた。「下々の奴等を―かうため〔鑓権三上〕」とある。出典は近松門左衛門浄瑠璃「鑓の権三重帷子(ヤリノゴンザカサネカタビラ)」である。これではフランス語由来という可能性は限りなく低いだろう。では、フランス語が日本語に影響されたのか。
 次に『Le petit Robert』にあたる。「(1867) VIEILLI Quitter (qqn), planter là.◇(1880) Se débarrasser de la compagnie de (qqn qu’on devance, qu’on prend de vitesse).」とあって、例文はドルジュレス(1886-1973)から「Ayant piqué un galop [...] et semé tous ses officiers」が採用されている。これもあまり可能性がなさそうな感じ。
 「種を蒔く」から「追跡者を蒔く」に至るには相当の距離がありそうだけど、偶然に日本語でもフランス語でも同じような意味を派生させたにすぎないのだろうか。


 こんなことに時間をかけていてはいけない…。

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